7回目のウツになる
バイト社員に急遽辞めてもらい、借金返済していた西日本銀行に、毎月の返済額の減額を申し出た。月50万円を15万円くらいにできないか。しかし「減額は出来ません」の一言に意気消沈し、交渉は1回で諦めた。気づけば、人生で何度目かの鬱状態に陥っていた。
(あとで知りましたが、この返済減額・リスケは交渉次第で可能です)
ヤマハで営業ができずに9ヶ月でノイローゼ退社の時、リース会社で新入社員教育と仕事ができずに婚約破談の時、その後の長い失業者時代、最初の独立半年で実質廃業した時、2度目の起業で大仕事に行き詰まった時、あわない本屋廻りの営業をやったとき・・・・今回で7回目のウツだ。
何とかせねば。仕事9割減で大幅な赤字になり、借金の返済もあり、仕事は増えない。お金はどんどん無くなる。でも、やる気が出ない。悩むだけで仕事してない。行動してないから何も好転するはずはない。
それはわかっているが、このままでどうにかならないかと期待している。他力本願。自分に負けている。己に克つ。克己という自分の名前が恨めしい。
気づけば、何もせずに悩んでばかりの姿を妻に見られるのが恥ずかしく、適当な時間に外に出て、図書館や公園でボーとすることが多くなった。人生の悩みや苦しみに関する本を読み、なるほどと思いながらも溜め息をつくばかり。
日が傾き、夕暮れの頃の黄昏に包まれてくる街並みと人を眺めると、これで1日が終わるんだと、ホッとした気分になっていった。
1998年になり、預金残高はあと3カ月でゼロになるという時点で、虎の子の先祖代々の土地を投げ売りすることに決めた。今のままでは仕事で返済できる目途はない。バブル当時の1990年は坪2500万円の話もあった土地だが、1998年年初時点の実勢価格は300万円前後だった。
不動産登記簿謄本には、その土地の過去の持ち主や担保状況、債権者、債務者、差し押さえなどの様々な履歴、土地の人生が書いてある。私の土地も酷い目に会ったが、周囲の土地もバブル崩壊後は滅茶苦茶な状態だった。持ち主は次々に変わり、最後は地主が軒並み破綻。銀行などの債権者が仕方なく管理していた。
1991年にバブルは崩壊したが、また上がるのではないか? 毎年、そんな淡い期待を持っていたが、結局、10年以上連続で不動産価格は下落を続けることになる。
1998年3月、大名の土地のすぐ前にある不動産屋「地研ハウジング」経由で、近所の川口不動産で土地を物色していたブティックのオーナーと面会。
坪300万円で売却する話で進んだが、いざ契約の段階で相手側が250万円と書いた契約書を突き出し怒り心頭。馬鹿にするなとその場を蹴ったが、最終的に300万円、17坪の土地を5100万円で売却することになった。
借金の残債は3300万円ほどで、5100万円から相続税を差し引くと3500万円あまり。危機一髪で借金は帳消しとなり、これで1992年に発覚した連帯保証1億円事件の借金は終わった。全財産も無くなったが。土地の売却残200万円は弟と折半した。
先祖の土地は自力で取り戻そうと思っていたが、結局、自力弁済は約1200万円で、残りの8800万円は土地と家と株券の売却で補った。だから、親経由で借金1億円を被ったが、その大半の返済は親の財産処分で自分の力ではなかった。
青い鳥を求めて
こうして、毎月の借金返済の資金繰りからは解放された。だが、仕事ぶりは一向に回復の兆しは見えなかった。借金はなくなったが、俺は今後何をしていけばいいのか?今の広告代理業を続けていくのか?求人広告や販促の広告を受注して文面コピーを考える・・・はどうも違う。しかし、他に何が出来るのか、自分の天職は何か?青い鳥はどこだ?
私は新興宗教や勉強会の門を叩いた。幸福の科学、阿含宗、生長の家、天理教、金光教、善隣教、その他新進の教祖が開いている勉強会など。本やセミナーにも様々出た。それなりに胸を打ち、気づきもあった。だが、自分ができる仕事は何かとなるとわからない。
結婚情報サービスはどうか?仕事で、出版社サンマークグループの結婚情報会社の広告作成に関わり、業界のいい加減さ、入会金ぼったくりで後はほったらかしな体質を知ったが、一方で、結婚相手を探す大変さは、36才まで独身だった自分も経験している。
男女の出逢いを提供するという意味では、1992年から毎月やってきた異業種交流会の経験も活きる。俺もこの会がキッカケで結婚したし、他にも数組いる。
まずは他の結婚情報サービス会社も廻ってみよう。この点、営業マンは得だ。営業です、広告はどうですか?と営業を装うことで堂々とその会社に入れる。営業マンの特権だ。
電話帳を見ると、山ほど結婚情報サービスの広告がある。タウン誌にも必ず毎回載っている。その中から、まずは日本仲人協会福岡支部という会社に飛び込みした。社名からして、歴史は古いらしいと思っていたが、雑居ビルの上の階にある薄暗いドアを開けると、果たして老女のようなお婆さんが現れ、とりあえず広告営業に来ましたと素直にいうと、暇だったのか、「まあ座りなさい」と好意的な言葉を投げかけられ、ソファに座れた。
日本仲人協会の長い歴史や素晴らしい実績のことなどを聞いたが、ここは加盟店の一つであることがわかった。それも相当萎びた加盟店。店主がそうだ。資料や写真も古い。事務所も暗く、森の中の洋館のようだ。ここの家賃は払えているのか?自社物件か?などをつらつら頭に浮かべながら、ここではあまりノウハウみたいなことは聴けないなと思っていると、相手も興味がないとわかったのか、話をガラリと変えた。
「あなたは神を信じますか?」
確かそういう質問だと思ったが、女社長は世界何とか教の話を始めた。五井さんとかいう教祖の素晴らしさや、教えの深さなどを等々と話し始めた。「世界人類が幸せになりますように」という、街角にたまに立てかけてある白地に黒い文字で書かれた棒きれも、この宗教団体の信者が立てているのを知った。
あのパネルや棒は、おそらく誰でも一度は見たことがあるのではないか。信者数は30万人くらい。にしては、あの棒は全国あちこちにある。教団のことは知らなくとも、「世界人類が幸せになりますように」という板きれの認知度は相当のものだ。PR戦略としては素晴らしい。勧誘もしやすい。あの棒の団体ですと言えば、ああ、あの棒のですかと、話を受け入れやすい。
事実、私もあの白い棒がこの世界・・教だと知ってからは、素直に話を聞くようになった。人はまったく初めてのことには警戒感を抱くが、前に目にして知っている、見たことがある、聞いたことがあるものや人には親しみを抱きやすい。広告PRの効果だ。
あの棒が素晴らしいのは、宗教団体名を書いていないこと。まあ、実際は、棒の裏のどこかを詳しく見れば、なにがしかの名前が書いてあるかもだが、宣伝臭、宗教臭がないからこそ、棒きれの地主も「世界人類が幸せになりますように・・・素晴らしい言葉と願いですね。建ててもいいですよ」と受け入れているのではないか。
最初は興味深い話もあったが、次第に飽きてきて、しかし、抜け出すタイミングがなかなか見つからず、結局1時間以上勧誘話を聞かされ、最後に集会案内をもらって出た。
あの女加盟店主はどうやら仲人協会の仕事は趣味で、本業は世界なんとか教の勧誘活動なのだろう。当面の金とか資産もあり、仕事はあまりしなくても、食っていくには困らない。夫や先祖の資産があるのだろう。わからんが。
他には、JMS福岡という、やはり全国組織の結婚情報サービス会社の福岡支部にも飛び込みで行ったが、広告にいつも出ている、年輩だが若く見える美人風の支部長がいて、「ああ、広告でいつも拝見してます」と愛想笑いをして、広告のご紹介ですが・・・と俺が言うと、けんもほろろに追い出された。広告では親切そうだが実際は怖かった。
次に行った「太陽倶楽部」というのは中高年のネルトン倶楽部のような感じ。「苺倶楽部」は50代の女性が経営者で、一人で細々と経営。しかし、だからこその丁寧な感じで、男女の出逢いを真摯に取り持とうとしていた。やるならこういう感じだと思った。
大手のオーネットやツヴァイには資料請求をしたが、このオーネットの営業電話がしつこかった。会社と携帯に毎月かかってきて、「ぜひ一度来店を」と勧誘する。こちらが「今はいいいです。忙しいです!」と多少強い口調で断っても、明らかにノルマに追われてフォロー電話をかけている感じで、イケイケガンガン主義なのだと思った。
後年、ツヴァイが株式店頭公開したのにはビックリした。イオングループで企業と団体契約するなど堅実そうだったが、まさか怪しい結婚情報サービスで公開できるとは思ってもみなかった。逆に言えば、マジメにやれば立派な産業になるのだ。
他にもお見合い倶楽部やネルトンサークルも調べたが、既に結婚している自分は、もはや恋愛とか結婚には興味ない。やはり性に合ってないと諦めた。
タクシードライバーや陶芸教室はどうか
ある日、在日韓国人で作家のヤンソギルさんが、事業に失敗したあとタクシー運転手をしていたと自伝小説で知った。そういえばどこかの通販会社の社長も、昔、食えない時にタクシーに乗っていたなあ。場末の転職先のイメージだが、俺も一度やってみるかと、天神タクシーの本社へ行った。面接を受けようか迷っていると、外にタクシーが停まっていたので聞いてみた。
「タクシードライバーへの転職を考えているんですが、実際、どうですか?」
「やめときな。今は稼げないよ。せいぜい、手取り年収で200万とかだよ」
「そうですか。わかりました」と意外にあっさり引き下がった。
「陶芸教室」も考えた。FCフェアで陶芸を焼く窯メーカー主催の「陶芸教室ビジネスセミナー」を聞き、陶芸かあ、なんか癒されるなあ、それで食えたらいいなあと本を買い込み、陶芸教室を10ヶ所くらい廻り、自分でも器を創ってみた。しかし、やっぱり自分にはそういうセンスはないし、先発の同業には勝てないと諦めた。
繁盛している和洋菓子メーカー「いしむら」の菓子再販業はどうか?生菓子などが多いから、毎日残り物が出る。でも充分食えるはずだ。それを各店舗を廻って回収し、どこかに再販できるのではないか?社長は知り合いだから、頼んだらやれるかも。
いやいや、そんなのやっぱり無理だ。他には何かないか?と迷っていると、ネットワークビジネスの会合へ誘われ、好きではないが、もしかしたら奇跡が起きるのではと参加。すると、著名なコンサル会社・日本LCAの小林会長がプレゼンテーターで驚いた。
曰く、「自分はネットワークビジネスの本も出しているが、イメージが悪いので自分ではしなかった。しかし、今回のこのサボテン長寿健康食品はスゴイ。明らかに効果が出ている。だから、自分が本部でやるのです」と。
有名なコンサル先生がやるなら本物かもと思ったが、あまりにセールストークがうま過ぎて逆に不安。何より、自分がネットワークビジネスで他人を勧誘しているシーンを想像すると反吐が出た。やはりこういうのも向いていないのだ。
「まな板の会」で自分をさらけ出す
こうして自分の天職探しをしていたが、お金はじりじりと無くなっていく。鬱状態は相変わらず続いていた。追い込まれる感覚。何とか打開するチャンスはないかと、様々な会合にも参加した。その一つは福岡県中小企業家同友会という、中小企業経営者の勉強団体がやっていた「まな板の会」。これは毎回、課題や問題を抱えた経営者が前に立ち、現状を素直に吐露、発表する。それに対して、参加した聞き手の経営者が自由に意見を言うというもの。ルールが一つある。それは、発表者の反論は許されないこと。素直に聞けと。
何回かは話を聞くだけの参加だったが、ある時、意を決して発表する側に手を挙げた。私は精神的に追い込まれていて、自虐的な気分だった。自分を虐めてみたいと。私は簡単な自己紹介をした後、仕事自体にやる気がない、どうしたらいいかわからない、ウツだ、みたいなことをウダウダと述べた。半ば、ヤケクソ気味に。
それに対する意見として、「頭も体も普通に動くじゃないの。何でもできるよ」「甘えてるねえ」「贅沢言うな。世の中には体が不自由でどうしようもない人も沢山いる。感謝が足りない」「生きてるから大丈夫」「原点に戻る。毎日が初心」「一つに絞る」「人助けを第一に考える」「目標を持つ、理念を持つ」「何が好きか。何がデキルか」・・・数々の助言を戴いた。その場でガーンと来る気づきはなかったが、有り難いことだと感謝した。
四肢切断の中村久子
その他、過酷な状況や絶望から立ち直った人の本を探しては読みまくった。一番、印象深いのは「中村久子」という四肢切断になった体で逞しく生きた女性の話。
昭和の初め頃、貧しい山村で生まれた久子は、凍傷が悪化して突発性脱疽を併発。壊死した部分を切断した。小学校に上がる前のことだった。その後も、金がないのと、惨めな姿を他に曝したくない家族の気持ちもあり、久子は家の中で暮らすことが多かった。唯一の友だちは人形。「あなたは手手も足もあっていいわね。私に貸してちょうだいな」
母は厳しかった。朝起きてから寝るまで、食事や野良仕事の手伝いや裁縫なども、手を貸さずに久子にさせた。そしていつの間にか、裁縫も口とわずかに残った腕の先でできるようになった。が、家の食い扶持を減らすため、20歳前後で久子は売られた。
売られた先は、なんと見世物小屋!全国の祭りや露店市をドサ廻りする旅芸人の一人になり、短い手や口で裁縫や字を書く「だるま娘」をやることになった。
極貧生活の中、夫の早死や離婚もあって結婚は4回経験。身体以外の苦労も多かった。その後、口・耳・目の三重苦であるヘレンケラーとも対面。ヘレンケラーは「私より不幸な人。そして偉大な人」とたたえたという。40代後半より全国から講演に呼ばれ、その困難を克服した体験は多くの人を勇気づけた。
その他、神渡良平さんの書いた「下坐に生きる」では、掃除修養団体「一燈園」の高弟で三上さんという人が刑務所に講演で訪れ、結核末期で自暴自棄に荒れる18歳の少年を諭すシーンに感動した。未婚の母は少年を産んだ直後に死亡。父になる予定だった男は行方不明。天涯孤独の孤児で心がひん曲がった犯罪者を、なんとか死ぬ前に更正させたいと周囲は気をもむが、少年は暴れて言うことを聞かない。
そこで三上さんは少年の独房に泊まりこむ。結核が伝染する可能性のある少年の残飯も食い、体をさすって看病し、様々な会話をする。その捨て身の接し方に感服して少年は改心し、三上さんを「おとっつぁん!」と呼んで感謝するが、少年はまもなく死ぬ。
しかし、布団を剥ぐと、少年は微笑んで胸の前で合掌をしていた。世を恨んでばかりいた少年は、最後に感謝しながらあの世へ旅立ったのだ。
ほれ見ろ、こんな少年に比べれば俺の悩みなどないに等しい、と自分に言い聞かせた。
続けて「一燈園」創始者・西田天香さんの伝記「懺悔の生活」では、人生に迷いまくり、乞食をやって死にそうになったお寺の境内で「光」に目覚めたとあった。なるほど。苦しんだ末に光が見えてくることがあるのだと、俺にも「光」が見えることを切望した。
この本を読む数日前に次男が生まれた。正直、家計が苦しい時に家族が増えるのは大変と悩み、名付けも悩み、届け出の締切前日に「光」と名付けた。俺を何とか救ってくれ。生まれたばかりの赤ちゃんにもすがりついたのだ。
その他、当時ベストセラーになった飯田史彦さんの「生きがいの創造」「生きがいのマネジメント」も読んだ。国立大学の教授が書いた「生まれ変わり」と「生きがい」の研究論文だったが、生まれ変わりを信じることができない私にはピンと来なかった。
(しかし、この4年後、夫を亡くして悲嘆にくれていた社長夫人にこの本を贈ったところ、見事に琴線に触れたようで、その会社の経営計画書の冒頭に<私はこの本で立ち直った>と書き、その女社長の会社は8年後には10倍に成長。通販の(株)やずやです)
金がなくなり、土下座で廻る
こうして本やセミナーや人づてに、失敗や挫折人生を逆転した話を探しまくった。なんとか俺も逆転させたい。そのためには行動。が、うずくまっているばかりで足が動かない。
1998年の夏、ついに来月には金が無くなるまで追い込まれ、私は既存顧客と見込み客に頭を下げて廻った。何でもやります!仕事をさせて下さい!
私はそれまでの自分を客観的に振り返り、仕事が欲しいクセにカッコウをつけて営業活動をしていないことに気づいた。かつ、新規開拓にばかり頭が向いていて、既存客や知り合いの見込み客を廻ることをまったく忘れていた。
果たしてその効果はすぐに現れた。ラーメン一風堂の河原社長には、地元のタウン情報誌が毎年出すラーメン読本への広告を扱わせて欲しいと頼むと、「なんだ栢野君はそういう仕事をしているのか。今までと値段とか変わらないのならいいよ」。
九州一の宅配鮨チェーン「ふく鮨本舗の三太郎」蔀社長からは突然電話を貰い、
「今度、テレビCMをやろうと思うけど、栢野さんのところでお願いしますよ」
「ええっ、それはうれしいです!でもなぜ?他に大きな広告代理店もあるのに・・」
「CM料金はどの代理店でも同じだし、栢野さんには今まで、人脈紹介などで世話になっている。その恩返しですよ」
「・・・ありがとうございます!」
と涙が出た。有り難い。
こうして1カ月頭を下げて走り回った結果、約2500万円の注文をもらった。前月までの平均受注額が月100万円だったから、一気に1年分以上の仕事を頂いたのだ。
いつのまにかウツも治っていた。私の場合、ウツの原因はいつも、仕事の行き詰まりとそれに伴う経済的貧困。サラリーマン時代から変わっていない。仕事に満足し、収入的にも充分食えている場合はウツにはならない。
ただ厳密に言うと、この時は仕事に満足しているわけではなかった。サラリーマン時代の延長で求人広告や販売促進の広告代理業をやっていたが、何かが違うと悶々としていた。だから新規開拓に意欲が出なかった。でも、青い鳥は見つからない。金がなくなり追い込まれ、ハングリーパワーが出たのだろう。