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バンコクのスラムへ潜入

スラム探訪。カンボジアのシアヌークビル

 

発展のベトナムホーチミン視察

死ぬ時に後悔する10のこと

死ぬ時に後悔しない人生。昨日は朝4時半起床。7-11時は都の巨大施設トイレ便器約200個掃除。「小便器のこの上から水が流れますが、水アカも綺麗に。下の排水溝フタも裏返すと小便のアカが筋に。この2つを取るのが大事です」日雇い先輩71歳の元社長から懇切丁寧な指導を受ける。宝石卸売りの自営を35年やってたが、コロナでメイン客が倒産。借金なく?廃業して昨年から週に5日。モデル体型でシュッとしてる。言動も。年金満額出て金銭的には困ってないが、「運動や社会との関わり大事ですね」と。休憩室で「カヤノさん何歳?」「64歳 ...

福岡のCMにカヤノが出てるぞ!

バレたかw。福岡のCMに「カヤノが出てるぞ!」とメッセ貰った。2002-2010年頃まで(今も)いつもオレンジTシャツ着てたんで。ぜひ音をオンにして聴いて。アスチルベ?買うか。

「夢コンサート」ダサい商品をダサい客向けで大成功

ダサいシニア向けにダサい”商品“で大成功 ■5月3日は傘寿の誕生日。この日を境に歌手を引退する橋幸夫(79)の後継者に、4人が名を連ねている。今月上旬に行われたオーディション「二代目橋幸夫を探せ!」の最終合格者たちだ。 【写真を見る】車いすでステージに立つ葛城ユキさん 死の直前に夢グループ社長に電話をかけていた 音楽担当記者が解説する。 「千人を超える応募者の中から、最終審査に残ったのは10人。それぞれ橋のヒット曲『潮来笠』や『恋のメキシカン・ロック』を歌い、自慢の美声を披露して勝ち抜きました」 当然、取 ...

フィリピーナのお金と家族

マニラのラーメン屋で、顔を合わせた初対面の日本人男性に「500円貸して欲しい」と頼まれたことがある。その人は、ポケットに200ペソ(約500円)しかなく、今夜ホテルに泊まることすらできない、と言う。「クレジットカード限度額を超えてしまっているので使えないんですよ」。私は「他の方に相談されたらいかがでしょうか」というのが当然だと思って、そう言い、心の中では相手を警戒した。 その時、たまたまフィリピン人女性のアンナと一緒だった。彼女はマニラにある日本のマスコミの支社で働いているのだが、「フィリピン人であるあな ...

少子化対策の外国人労働者

異次元の少子化対策の一つ=働く日本人が今後激減するので外国人を増やす。この日経記事はわかりやすい。某建設会社は2022年に新卒日本人2人を採用したが2か月で退職。その後も応募(中途採用含め)はない。が、外国人実習生は勤続10年で現場の幹部に。記事にはないが、たぶん過酷な3K(キツイ・汚い・危険)職場だろう。カヤノも日雇いで食品工場(山崎パン・セブンイレブン惣菜・マルエツ他)、倉庫で検品出荷、ベッド運び、引っ越し、飲食店皿洗い、ホテル部屋掃除、ゴミ収集車、公園の草刈り補助、ビル屋上の緑地化工事などやってみた ...

歌舞伎町と貧困女子と私に関する事

第5章 カモられる中年男性 「ホスト狂いの女の子たちは、無限にお金が必要なので、常にどうやってお金を作ろうか考えています。ホス狂い女子会みたいなのはよくある。基本的にお金の話ばかり。内容はえぐいです。どこの風俗が稼げるかというレベルじゃなく、おじさんたちからどうやって財産を奪うかみたいなこと」 彼女たちに狙われているのは、寂しいおじさん。40代、50代で未婚で優しそうな人をなんとか見つけて、ガチ恋をさせて、お金を引っ張りたがっている。 結婚しない、できない男性は本当に増えた。2020年の生涯未婚率(50歳 ...

博多のストーリー殺人と私との関係

こんな事件はスルーするが、博多で美女だがいかにも中洲風で派遣事務?がなぜ野獣男と交際?自ら引き寄せたな。と思った。よくあるケバい夜の女とヒモ男だと。中洲で有名なロイヤルボックスとリンドバーグの藤堂ママがいち早く男の名を実名写真で拡散したんで、2人はママの店で働いてたんだ。と思ったが別な中洲の高級ラウンジらしい。藤堂ママは知人の情報を社内メールで流したら、社員がTwitterで拡散。犯人逮捕のために。みな善意で。でも警察は最初から寺内進を追ってた。ストーカー処分されてたから。彼女はタレント女優目指してたが挫 ...

ルサンチマン

第十三章 自滅

独立へ

こうしたサラリーマンとしては過去最高の時期を過ごした後、1995年の8月15日に、福岡市中央区舞鶴のマンション事務所で独立した。その前月の7月25日には長男敬之が誕生。良いプレッシャーとなった。

前述のように、仕事はアド通信社時代をそのまま引き継いだので、初月から売上も500万円以上、粗利も100万円近くあった。毎月の借金返済に30万円、その他事務所と自宅の維持に約70万円かかったので、なんとか最低限の生活は出来た。

聖心美容外科を中心に、約30社の販売促進と求人の広告代理業務。お客を訪問して取材し、広告文案を考えて執筆し、それを元に広告枠をデザインして版下を作成し、各媒体の出版元に納める。このうち、デザインと版下作成は、アド通信社の伊藤さんに依頼。その他の営業活動とコピー文案作成作業は、妻の助けを借りながらやった。

電話応対や事務も、出産したばかりの妻がやってくれた。事務所押し入れにベビーベッドを敷き、足でゆらしながら事務をした。子供が泣いているときに電話が鳴った場合は、受話器を持って外に走った。仕事場と保育園が一緒になったドタバタ事務所だった。

この独立当初、筑紫学園・井上さんの紹介で「アジアビジネスセンター」のパンフレット作成に携わった。社長は新日鐵でテーマパークを開業し、その後は福岡ドームの副社長を務めていた瀧本さん。アジアと九州を結ぶ総合コンサルティングセンターを創ろうと内外に呼びかけ、地場大企業等50社から約3億円の出資を集め、専任職員10数名、社外コンサル50数名など、地方のコンサルシンクタンクとしては壮大なスタートを切った。

8月ごろから構想の具体的実行に加わり、最終的には12月の年末にパンフレットや名刺封筒、ロゴマーク一式などが完成。総額約700万の受注で粗利は150万ほどだった。身に余る仕事を頂いたが、大所帯での新規事業で広告物の変更も多く、私の実力以上の心労が続き、終わった時は消耗していた。

1996年の初めからは、東京時代にバイトしていた出版社・ビジネス社の福岡地区営業代行業務を請け負い、月に1週間ほど、福岡と小倉の本屋さんと東販・日販などの問屋を廻り、新刊本の事前受注や既刊本の補充営業などをした。

しかし、これは昔のダメだったヤマハ発動機やCSLと同じく、お願い営業的なルートセールスになり、結局半年程度でウツ気味になって辞めた。俺は本当にダメだなあと落ち込んだ。

(しかし、この7年後に自分の本を出した時、本屋さん相手の営業PRでこの時の経験が生きた。人生に無駄はないのだ)

調子に乗ってケンカの連続

その後、聖心美容外科の仕事は毎月コンスタントに700万円ほどあり、何とか食うには困らなかったが、悶々とした日々が続いていた。

1997年の春、会社を増資し、有限会社から株式会社にした。お客や友人知人に一株10万円の出資をお願いし、最終的に30人の経営者や友人が出資してくれた。そのキッカケは天下の角川書店とのケンカだった。

角川書店の「九州ウォーカー」創刊号に1000万円を超える広告を受注をしたのだが、角川からインタークロスみたいな無名広告屋には口座を開かぬと通達されカチンときた。 そんな大企業権威主義なら、こっちも地元名士の名前を借りようと、明太子の<ふくや><やずや><ランチェスター経営>などそうそうたる株主を揃え、その上で交渉しようとした。その後、口座の件はどうでもよくなり、他の代理店を通して入稿した。

また、その年の夏、元の勤務先であるアド通信社と大喧嘩をした。お客をアド通に取られたかどうか忘れたが、カチンときた私は仕返しをしようと決意。アド通と折半していた大口クライアント・聖心美容外科の仕事を強引に奪い取った。

これで売上も月商1000万円を超え、個人事業としては大成功だ。
「ざまあみやがれ!」
この頃から傲慢不遜の塊のような言動が増えた。もう誰も止められない。

秋には日本青年会議所からの依頼で、大規模な起業家パネルディスカッションの企画コーディネーターを務めた。講師にホワイトデー創案者「石村萬盛堂」石村社長、キャナルシティを創った地場最大のデベロッパー「福岡地所」の榎本社長、日本一の中小企業経営戦略コンサル「ランチェスター経営」竹田社長、九州一の宅配鮨「ふく鮨本舗の三太郎」蔀社長らを選出。バカのクソので討論を盛り上がらせて大成功。俺は天才だと思った。

自滅

このイベントで調子に乗った直後、聖心美容外科の山川院長と、広告版下物の色校(色のチェック)で意見がかち合った。

「これでいきましょう」
「いや、栢野さん、これはダメですよ」
「いや、これでいいと思う」
「でも、デザインと色がどうも・・・」
「・・・・・・・・・・・・」

私はキレ、自分でも思いもかけぬ言葉を言い放った。
「もう勝手にしろ!俺はお前のところの広告はもうやらん!」

数ヶ月前ほどから、聖心美容外科の仕事はマンネリしていた。毎回広告コピー文の作成に苦しみ、新しい案が出ずにワンパターンの繰り返し。この程度の仕事で毎月1000万近い受注を貰うのは心苦しい。何やら申し訳ない気持ちもあった。潮時。そんな考えも頭をよぎった上での、発作的な自殺行為だった。

翌月から売上は9割ダウン。それほど聖心美容外科の仕事に依存していた。社員は俺と妻以外はバイト一人だけだったが、他の仕事をする余裕は充分あった。もっと新規開拓せねば。しかし、現状は充分食えている。そこに甘えがあり、改革を怠っていた。

月の売上は1000万円から100万円と激減し、粗利も250万円が30万円になった。事務所と自宅の維持費に加え、借金返済で月に120万円は必要だったので、資金繰りは一気に苦しくなった。

まあでも、なんとかなる。元はゼロからスタートしたこの身だ。また一から始めればいいと、職安や求人誌をリストに求人広告等の新規開拓電話や飛び込みをしたが、ほとんど売上が上がらない。数件断られると落ち込み、営業活動をしていないに等しかった。

当時39才。新規開拓・飛び込み営業をするには歳をとった。広告の新規開拓営業マンは大半が20代や30代前半まで。今さらそんなみっともないこともできない。そんな恥ずかしさも出てきた。

また、前のアド通信社は地場では有名だが、インタークロスは全くの無名。独立して初めて新規開拓し、「インタークロス?知らんねえ。求人?うちはOOに頼んでるからいいよ」の連続で、知名度の無さに打ちのめされた。

リクルートやアド通時代はそこそこの営業実績が上げられたが、それは会社の知名度のおかげで自分の力ではなかった。かつ、新規開拓で断られてもガンガン前に進めたのは、職場に同僚やライバルがいて、切磋琢磨できたから。うるさい上司とノルマがあったから。

しかし今は、事務所で営業するのは自分独り。張り合いも何もない。出来ても出来なくても、誉められないし叱られない。会社にいるサラリーマン時代は気づかなかったが、組織の環境・強制力が個人の力を後押しするのだ。自分で自分を鼓舞するのは難しい。

しかし、広告営業以外に稼ぐ手段は見あたらない。でも、新規開拓で断られるのが恐く、こんなことは無駄だと足も心も動かない。当然、預金残高はどんどん少なくなっていった。

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-ルサンチマン

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