衝撃の結末◾️羽田の記者クラブにいた時、サイゴン支局の近藤紘一から「家族が行くのでよろしく」と連絡があった。「サイゴンから来た妻と娘」はその日の夕刻、羽田に着いたが、彼女らはもうすぐ消滅する南ベトナムの旅券を持っているだけで、日本の入国ビザはなかった。近藤との結婚証明書もなく、入管を説得して2人を仮上陸させるのにずいぶん苦労した。そんなこともあって帰国してからの近藤とあれこれ話をするようになった。サイゴンで結婚した妻ナウのことも結構詳しく話してくれた。どこかに書いていたように、ナウはベトナム人の夫がいて、近藤が彼女と知り合った時、夫は刑務所に入っていた。サイゴンから来た娘はその夫との間の子だった。しばらくして近藤は痩せ始めた。手が震え、字も書けない時もあった。B型肝炎の疑いがささやかれた。ベトナム戦争の取材記者は当時、花形だった。社会部からも何人か先輩記者が戦場を踏み、戻ってくると血なまぐさい戦場の様子とサイゴンでの夜の武勇伝を夜遅くまで若手記者に語った。すごく格好良かった。そんな先輩が1人また1人、痩せて行って、肝炎から肝硬変、肝ガンと進行し、皆不帰の人になった。その頃になってやっとベトナムにはB型肝炎が常在し保菌者が多いという話が聞こえてきた。B型肝炎は主に性交で感染する。第二の性病と言われる所以だが、当時の新聞は妙に人権に配慮していた。そんなことを書いたら、患者の人権を損ねるとか。1度書いたが、本当にボツにされた。筋ジストロフィーも同じで、長い間、遺伝性とは書けなかった。その意味で近藤も大事なことを書かない新聞の被害者だったかもしれない。彼が小康を得た時、産経新聞は彼が望んでいたパリ特派員の辞令を出した。優しい新聞社だった。既に彼はパリに家を買っていて、妻と娘は一足先にそこに移っていた。日本語より慣れたフランス語で生活できるようにという彼の思いやりからだった。発令を前にパリの様子を見に行った近藤が、「家に行ったら妻と娘が前夫と一緒に暮らしていた」とポツリ語った。刑務所に入っていた男だ。近藤は結局パリに着任することなく鬼籍に入った(1986年45歳)。死因は胃がんとあったが、何かの間違いかと思う。「サイゴンから来た妻と娘」(ベストセラー30万部)の本にはたくましい生活力を持つベトナム人妻の生き様を描いている。彼女は今、親子3人水入らずでパリに暮らす。あのストーリーの最終章にふさわしい話になろうか。続きは以下写真のコラムへ2010年2/4週刊新潮連載「変見自在」by高山正之(産経新聞記者経て帝国大学教授を歴任)