第二十四章 感謝

投稿日:2008/10/28 更新日:

天の摂理

実は「小さな会社★儲けのルール」が出た後、当時の親父の同僚で、福岡シティ銀行のNO2専務まで務めた九州リースの森田相談役(当時)に会った。

「カッチャン。何の本を出したんね」

「いやー、ランチェスター戦略っていうヤツです。昔、流行ったらしいですが、今はこの博多で竹田先生という人が日本の第一人者で、この本は竹田先生の替わりに私が初心者向けに書いたんです」

「ふーーん。へーー。そりゃ親父と同じだ。おやっさんもランチェスター、ランチェスターって言っていたよ。弱者の戦略だ。ローラー作戦だって。まあ科学的なドブ板営業だね。でも、血は争えないねえ。そりゃ奇遇だ」

俺は我が耳を疑った。高校時代に死に別れ、あんなに憎んだ父だったのに、なんと!父の死後30年以上経った今、父と同じ事をやっている!これを奇跡と呼ばずになんと言うか!運命、天命、宿命か。

まあ、冷静に考えれば、父の活躍した昭和40年代後半は、日本で最初に「ランチェスター法則・弱者の戦略」に言及した中原氏や奥村正二氏らに続き、統計学者だった田岡氏の本が200万部も売れた第2次ブームの頃。勉強好きなビジネスマンなら誰でも読んだろうし、地方銀行の本部長のような立場にいた幹部なら、ほぼ100%ランチェスター法則の本を読み、強者の都銀や地場最大手の福岡銀行との差別化を真剣に考えたはず。

同じ相互銀行でも一歩先を行かれていた西日本銀行にいかに勝つか。そのために、弱者の戦略を銀行内に徹底させたのだ。だから、父がランチェスター戦略をガンガンやっていたのはおかしくはない。当時の時代背景を考えれば。

さらにこれも奇跡的なことなのだが、俺が福岡に帰る寸前まで働いていた「ビジネス社」は、田岡氏が昭和40年代?50年代に一連のランチェスター戦略の大ヒットを飛ばしていた出版社だった。竹田先生も1冊「ランチェスター弱者必勝の戦略」を出している。倉庫で手に取ったが、略歴で福岡在住とだけ見て、あとは難しそうだったので読まなかった。

しかし、田岡氏が昭和59年に亡くなり、その後、田岡氏の会社社員だった矢野さんと外部の一番弟子だった竹田先生を始め、その他、パクったコンサルタントや講演家が数百人いたが、田岡氏の奥さんが「ランチェスター戦略」の商標登録を振りかざし、全国のコンサルタントに内容証明を送りまくった(俺にも2003年に来たが、反撃でFAX50枚送りつけ、東京の田園調布の自宅に飛び込み訪問したが、居留守を使われた)。

そのため、竹田先生と矢野さん以外のコンサルタントはランチェスターの名前を消し、「小が大に勝つ戦略」とか「OO流一番化戦略」に名称を変え、さらに、やはり他人のブランドがいつまでも跋扈するのが気に入らなかったある有名コンサルタントなどは、あーだーこーだ書いて「もうランチェスター戦略は古い」と著書で切り捨て、自分の名称を売るのに躍起になった。今も昔も原理原則系はパクリの歴史なのだ。

その後、元社員だった矢野さんも、なぜか社名からランチェスターの名前を外し、結局、ランチェスターの名前を社名・本・講演・教材に正々堂々と冠するコンサルタントは、竹田陽一だけになった。田岡氏から直接の教えを受けたのもこの2人だけ。(その後は全国の竹田ランチェスター代理店や故田岡さん系のNPO団体が継承)

しかし、竹田先生の活動拠点は福岡。本は「小さな会社★儲けのルール」が出る前までに累計40万部くらい出ていたとはいえ、それは約10年間でのこと。年間では4万部程度。かつ、先生はこの15年ほど、田岡ランチェスターを大幅に改良した「竹田ランチェスター・ビジネスモデル(7月から特別コースあり)」の構築とDVD・CD総計200本以上のシリーズを完成させるのに注力し、約10年間は休業同前だった。

だから、2002年の段階では、昔学んだ現在の60代以上を除けば、ランチェスター戦略なんて一般的には無名だった(幸い、今も無名同然。講演先で毎回アンケート取るが知ってるのは0?1割。そんなもの)。そういう意味では、竹田先生と同じ福岡にいたとは言え、俺が竹田ランチェスターの本を書いたのは、やはり奇跡以外の何ものでもない。その時点ではブームでも何でもなかったから。

とにかく!理由や背景はおいといて、俺が今、33年前にケンカ別れした父と同じことをやっていることに改めて気づき、その時代の証言者に今日も会え、なんというか、生まれて初めて父とじっくり話したいと思っている。

父も地方銀行の営業畑だったから、取引先は今の俺と同じく、地場の中小ベンチャー零細自営業ばかりだったはず。今、一緒に飲んだら、「いやー、今の明太子<ふくや>の川原社長はエラソウにしているが、家業を継ぐ前はうちの銀行に兄のコネで補欠入社した不良社員だったよ(事実・笑)」とか、30年前と今の比較ができ、それは盛り上がる飲み会になっただろう。

が、その父はいない。

「小さな会社★儲けのルール」が大ヒットしたあと、なんど父が生きていればと思ったことか。仲悪かったが、今なら話は尽きないだろうと。

が、今日、この講演会場に、まさに当時の父をよく知る、同僚3名の方が駆けつけてくれた。本当に奇跡だ。

今度、この方たちの「うずしお会」に参加する。願わくば、そこで10分でいいので、「小さな会社★儲けのルール/ランチェスター経営7つの成功戦略」の講演をしたい。そして、昔の田岡ランチェスターと今の竹田ランチェスター戦略が、どう違うかを聞きたい。そして、32年前の父と見比べてもらいたい。

当然、父を越えることはできないだろう。実務の第一線の指揮官としてやっていた父と、同じ分野とはいえ、単なる評論家の俺では比較にならない。

しかし、俺は密かに弱者の戦略を練っている。酒が進み、皆が酔っぱらった後でミニ講演をするのだ。そんなタイミングなら、内容の違いなどはわからない。

俺には見える。聞こえる。ミニ講演が終わった後の皆さんの第一声は

「やっぱりお父さんと同じだ!そっくりだあ!!」

俺はうれし涙で顔をくしゃくしゃにする。そしてふと見ると、涙の向こうの座敷の隅には、32年前の姿のままの親父がいる。いつも俺を軽蔑の目で見ていた親父しか思い出せなかったが、今日はニコニコ笑って頷いている。

「克己。やっとお前は、俺がつけた名前に追いついたな。己に克つ。パパはうれしいよ。素晴らしい講演をありがとう」

うれし涙と嗚咽がこみ上げてきて、たまらず俺は土下座して、畳に頭を着けてこう言うのだ。小説・映画の「鉄道員(ぽっぽや)」のように。

「パパ。今まで本当にすまなかった。生前、パパは平日も休日も家にいないし、一緒に旅行に行った記憶も2回しかない。いつも叱られて殴られた俺は、いつもパパが嫌いだった。いや、むしろ憎んでいた。
でも、今日、パパの同僚から銀行時代の大活躍の様子を聞いてわかったよ。パパは本当に多くの人のために、一所懸命に頑張っていたんだね。まさに命を削って。だから、家庭を顧みる余裕なんてなかったんだね。それを逆恨みして、本当にごめんなさい!」

「いいんだよ。パパはねえ。ものすごくうれしいよ。偶然とは言え、お前がパパと同じ様なことを、それも同じ中小零細企業向けに講演しているなんて、これ以上の親孝行はない。パパの分まで頑張って。
でも、体には気をつけろよ。やりすぎると、パパのように血管が切れるぞ。睡眠は充分にとるんだ。それともう一つ。今のお前があるのは多くの人のおかげだが、最大の功労者はお前の嫁さんだ。家族を大事にね」

「わかりました!パパ!ありがとう!」

・・・と頭を下げ、再び父を見ると、なんと!その傍らにはママがいる!!

「克己。頑張ってるね。あなたが私に最後に言った言葉は辛かったけど、ママはもう、全然気にしてないよ。すべては終わったこと。ママにもあなたにも辛い過去だったけど、だからこそ、あなたは人の痛みがわかる人になった。

まあ、まだまだ時々キレて変なことを言うけど、あなたは毎年、大きくなっているわ。まさに自分で言うとおり、あなたは転びながら成長しているわ。もっともっと転んで、素敵なダルマさんになってね。
栢野のカヤは、仏陀さんの悟ったインドのブッダガヤから伝わってきているのよ。それは本当よ。コチラの世界でこの前、ゴーダマシッダルーダさんに会ったから間違いないわ。だから、あなたは同じインド出身の達磨さんと同じなの。一生修行よ。覚悟してね」

「わかりました。やはり、私の今までの数々の失敗や挫折は、実は同じ様な経験をしている大半の他人様の心が少しでもわかるようにと、最初からプログラムされていたのですね。パパとママに親孝行できなかった分、今後益々!こちらの世界の悩める弱小起業家のために、この身を捧げます。今日は本当にありがとうございました!!」

と畳につけた顔を上げると、もうパパとママはいない。

ふっ。そういうことかと、家の居間を見上げると、壁に掲げた大きな額が目に入った。

それは数少ない父の遺品で、自殺した母の家から持ってきたものだ。父は昭和50年に他界したので、少なくとも30年以上は栢野金之家に伝わっていることになる。

母も他界したあと、大半の家具類は処分し、この額も「こんなもの・・・」と捨てようと思ったが、なぜか処分できず、15年間も私の寝室に掲げている。

「天の摂理」

人に感謝 物に感謝 すべてに感謝

この世に起こることは全て正しい。

それが天の摂理なのだ。

■天国からのあとがき

かっちゃん。ごめんなさい。こんなことになるなんて。滅茶苦茶よね。めちゃくちゃ。もうおしまい。でもね。最後に言わせて。あなたが誤解してることもあるから。浦川とは西新のパチンコ屋で知り合いました。寛之が大学を卒業した後です。パパが死んだ時、ママは41才。お金には困らなかったけど、銀行時代の友達はみんな家族揃ってうらやましかった。ママはずっと専業主婦で、パパとあなた達の世話をするのが生きがいだった。克己はパパが天国に行って1年半後には京都へ行ったけど、当時小学校6年の寛之とは、その後10年ずっと一緒だった。だから、寂しくなかった。でも、寛之が出て行って、本当に独りになった。52歳の時よ。お金はあったけど、生活には困らないけど、ものすごく寂しさを感じたの。それまで50年間、生まれて朝起きて寝る時まで、必ず誰かが横にいた。最初は岡山で生まれたママのママとパパとお爺ちゃんやおばあちゃんも。おじちゃんたちもすぐ近くにいた。そこに高校生まで育った。その後4年間は家業の写真館を手伝った。大家族でみんなで同じ屋根の下にいた。そのあとパパとお見合いして結婚して福岡の生活が始まった。スグに克己が生まれ、寛之も。4人で一緒にご飯を食べて、テレビを見て、家事洗濯をして、パパの世話をして、あなたたちの育児や病気の看病をして、ケンカもいろいろしたけど。あなたが高校時代にちょっと荒れたのは怖かったけど、パパが死んだのも悲しかったけど、時が経てば慣れたわ。だけど寛之も出て行って、生まれて初めての、たった独りの生活はやっぱり寂しかった。ものすごく。たまに銀行社宅時代の友達とカラオケに行ったり遊んだりもしたけど、家に帰ると一人。他のみんなは家に帰ると旦那や子どもや、たまにお爺ちゃんやおばあちゃんがが居たりする。でも、ママは「ただいま!」と言う人もいない。一人暮らしになって最初の頃は「ただいま!」って何回か言ったわね。何の反応もない。あたりまえだけど。それまではおかえりとか、あなたたちは居てもいつも無言で挨拶もなかったけど、それでも誰かがいるというのは、今考えればものすごく幸せだったわ。たまに押し売りとか変な訪問販売も来たけど、それも嬉しかった。話を聞いて相手をしてる時は寂しくなかったし。あんたが怒った健康食品のネットワークビジネスも、そんなの別に必要はなかったし、ママも嫌いだったけど、会合に出ると知り合いがたくさん出来たし、居場所があったのよ。2年ぐらいで辞めたけど。その中で友だちもできた。これもあなたが怪しいから行くなと言った電気治療器のサロンも、普段はいつも無料だし、たまに30万のを売ろうとしてきたけど、あの場に行くと誰かがいたの。友だちまでじゃなくても、顔見知りがいるだけで寂しさが紛れる。寛之が出て一人になった時、チーちゃん(小鳥)を飼って癒やされたけど、私もかまって、チーちゃんも私が帰ると喜んでくれたけど・・・。

そんな時に浦川と出逢ったの。西新商店街のパチンコ屋で顔見知りになり、友だちになったの。他にねえ、居なかったのよ。そんなに友だちは。いたけど、田中さんとか牟田さんとか、昔からのアパートの友だちは。でも、みんな旦那さんとか子供とかいて、普通の主婦は家事手伝いとかで忙しかったし。こっちも気を使うしね。昔から行ってた糸岐薬局とか末次時計店とか、友だち同然のお店もあったけど、安いドラッグストアも同じ商店H街にできたし、時計も他に安いチェーン店ができたし、買わないとこっちも行きにくいし。食べ物も魚も昔は個人商店で買って友達感覚で楽しかったけど、そんな店はどんどんどんどん無くなったでしょ。ダイエーとかドラッグストアは安いし便利だけど、そこには話す相手もいないし、友だちも知り合いもできない。カラオケのレモンぐらいね。

ママは仕事もしてないし、朝起きてから夜寝るまで何もすることがない。誰とも話さない。会わないことが多かった。独りは恐ろしい。寂しい。悲しい。あなたや寛之は年に1回帰ってくるかどうかだったし、でも、もう大人で子離れで、二人共東京や大阪に行ってたし、それはもう仕方ない。そんな時に、パチンコ屋で知り合った人たちは、数少ない友だちだった。居場所があったの。そこには。行けば誰か居る。いなくても、何時間かいれば誰か来る。特に浦川とは仲良くなって行ったわ。今考えれば、財産を狙われていたのかも知れないけど、でも、出逢って少なくとも6年間はそんなことなかった。だって、お金を貸したのは最初の頃の3万とか5万とか30万だし。それも全部返してくれた。30万の時は利子代わりにバラの花束も持ってきてくれた。あなたは詐欺師のやることだと言ったけど、私は毎週何回か逢ってたから、そんな人じゃない。

ママねえ、楽しかった。浦川との生活が。パパは44歳で死んだでしょう。結婚して20年。パパは最初からモーレツ銀行マンだった。スグにあなたも生まれ、5年後には寛之も生まれた。子育て育児は大変だった。パパはどんどん出世して偉くなった。ママも鼻高々だった。でも付き合いも多くなり、その準備やお世話や、お中元やお歳暮も大変だった。あなたを城南高校と小倉西高校に入学させるため、パパはいろいろ動いたの。有力者にお金を払って。その時も大変だった。あなたは知らないでしょうけど。でも知ってわよね。西高の時は家に家庭教師が来て、あなたに問題と答えを教えたわよね。すぐに帰ったけど。そのことであなたとは一度も話してないけど、悪いことはしたけど、それもあなたのためよ。少しでもいい高校に行って欲しかった。許してね。不満があったとしたら。

パパは糖尿で高血圧で、膝も悪かったでしょう。毎日、そのケアで一所懸命。お付き合いも。パパが死んだ時、ママは41才。あなたと寛之の子育てが仕事だったけど、もう高校生のあなたにはご飯以外、私なんか必要なかった。自分で勉強もしてたしね。寛之もすぐに中学生になり、手がかからなくなった。そして誰もいなくなった。ワタシひとり。そんな時に浦川は大事な友だちの一人だった。唐津に妻子もいたけど、福岡に来て仕事した時、家に泊まるようになったの。泊めるようにしたの。泊まってくれるようにお願いしたの。だって、他にいないんだもの。一緒に過ごす人が。いい人だった。この1、2年は苦しんでたけど、必ず何かを成す人だと想ってた。助けたいと想ったの。お金の貸し借りは最初の3回以外、ずっとなかったのよ。家に来てくれて、ママの作る料理をおいしい美味しいと言ってくれたわ。パパと好みが同じなのよ。幸せだった。この人とのために生きたい。

仕事でモーレツだったパパとはほとんどどこにも行けなかった。あなたも記憶ないでしょう。それはそれで銀行を創った人だから。

浦川とはよく旅行にも行ったわ。楽しかった。人生で一番楽しかった。生きがいやりがい。喜んでくれる誰かのために生きる。共に生きる。いつも一緒にいる。誰かとの家庭、家族、パートナー。友だちも大事だけど、友だちはいつも一緒じゃないでしょ。家族と友だちは違うのよ。浦川は家族じゃなかったけど、週の半分は家に来てくれたから、私にとっては家族ね。夫ね。そんなつきあいを6年間した時、借金の保証人になってくれと言われたの。最初は2000万。ちょっと迷ったけどねえ、家族だから。あの人のためだから。その後に3000万。気づけば1年で1億円になったけど、あの人は必ず返す。大きな仕事を成功させると言っていたわ。それを信じたわ。でも返せず、差し押さえと競売開始決定にもなったけど、大名の土地だけで4億円の価値があったし、大丈夫と想ったのよ。でも、まさか4億がたった1年で1億円以下に下落するなんて、値がつかない、買い手がいなくなるなんて、夢にも想わなかった。財産は子供には残さんでいいと言ったのは事実。もちろん、本当はあなたたちにも残したかった。でも、差し押さえされて、もうどうしようもなかった。あなたが怒りまくってママを責めたけど、それはもうそのとおり。もう終わり。ごめんなさい。親として何もできずに。迷惑かけて。あなたたちにも1億円もの保証をさせて。もうおしまい。私も浦川もお金がなくなって、借金返済の催促電話も毎日かかってきて、ママは室見川に飛込みました。でも、川の中腹に来ても浅くて、救急車を呼ばれて・・。大勢の人に見られた。大恥かいた。舞い上がって何が何だかわからなくなって、気が動転して、おかしくなってしまった。今、意識が戻って我に返りました。ここはおかしい人が沢山いて、逆に私の目も覚めた。あーそうか、私はこんなとこにいるんだと。もうおしまいね。克己。あなたの罵倒はキツかったけど、ここに何度か見舞いに来てくれた時、私の面倒を見ると言ってくれたね。ここは酷いから移ろうとも言ってくれたね。ママ、ものすごく嬉しかった。そんな言葉を聞いたのは生まれて初めて。最高の親孝行をありがとう。今までありがとう。そしてごめんなさい。母親として最低なことをしてしまったけど、最後は滅茶苦茶になったけど、私はあなたを産んで良かった。あなたは生まれた時に頭が大きくて死にそうに大変だったけど、本当に可愛くて、私の自慢の子供でした。中学以降は憎らしかったけど、話す機会も減ったけど、高校出てこの10数年はほとんど会わなかったけど、親離れ子離れでよかった。あなたはあなた、私は私の人生があるし。浦川との人生はダメだったけど、私はこの7年間はしあわせでした。それに、子供は3歳までに一生の親孝行をするというけど、本当にそうよ。3歳までどころか、幼稚園とか小学生までは可愛くて、親としてしあわせでした。生まれてきてくれてありがとう。
さようなら。ママより。

-ルサンチマン

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