ブルーオーシャン×ランチェスター戦略で小さな日本一!
ビジネスモデルキャンバスで解説。by 阿比留会計士 ②
■ここに至るまでの私の経歴は、12歳ですね。小学校6年の時に人生設計をしました。その時が初ランチェスター。こいつ何言ってんだと言うことでしょうが、先ほど私の父が税理士やってますといいましたが、私が小学校6年の時に父が合格したんですね。父親が独立開業したわけです。それが小六。
その時、これは将来、事務所を横取りすれば、めっちゃ楽に生きていける。私、いかに楽して生きるか。小学校6年からそういう発想なんですね。
父に聞きました。将来、後を継ぎたい。どうすればいいの?すると、どうやら税理士と言う資格を持たないといけないとわかった。父は今からやるんだったら、公認会計士という資格のほうがいいよ。まぁ、会計士になれば税理士の資格もついてくるから、どうせやるなら会計士のほうがいいよ。と言われました。
なろうと思うんだったら、どうしたらいいんですか?と聞くわけですよ。そうすると、長崎って山がすごく多いんですよ。うちの家からも結構見えるんです。すぐ近くに長崎大学の経済学部があったんです。うちの父が会計士の試験を受けるなら、大学にいかねば。
あそこにあるけど、あれでいいの?あれでいいよ。行くためにはどうすればいいの?あの県立の高校に行けばいいよ。あそこに行くためには中学校。あそこの市立の。大学入って1年ぐらい遊んで、それから勉強すればいいよ。
資格取ったら戻ってきていいのか。そりゃ人としてダメだと。5年ぐらいは外で修行しないと。今いる人の事とかあるから、5年ぐらい外で働けと。
だから22歳、大学生の時に会計士になって、働いて5年ぐらいしたら長崎に帰ると。そして親の後を継ぐというプランが固まりました。
私は身長が175センチですが体重は47キロしかないんです。体力はありません。弱いです。ですが高校は卓球部。普通にやると勝てない。時速100キロ。意外に凄いんです。
テクニックはいろいろあるんですが、他の人がやらないある特定のスキルだけに特化してやりました。結果は県で3位。
こんなふうに、昔からあれこれやるんじゃなくて、何かに特化、絞るという事はやってました。
で、最初は長崎大学に行く予定だったんですが、長崎には会計の専門学校がない。それで大阪大学に行きまして2年から会計の専門学校に通いました。その時にロックバンド絞り込んでベースのみ。1番楽。
学生の時に会計士にはなりまして。その後、今は無き中央青山監査法人に入りました。そこで5年間。入社の時に5年したらやめますと言ってます。なんで親がそう言ってた5年でいいかなと。
そこですぐ独立ではなく寄り道をしまして、福岡銀行の本店に。そこで事業再生とかM&Aとか。福岡銀行が親和銀行を買収した瞬間だったすね。私もともと監査法人の時に心は銀行の監査やっておりまして、そういう上持って福岡銀行へ。
公認会計士って関わってる会社が大きいですよね。上場企業とか。規模が大きい。でも自分が独立したときに、こんな大きい会社やるはずがないというのわかってましたので、ギャップを埋めたかったんですね。
監査法人では上場企業を担当。福銀とか地方の銀行であれば地方の上場企業とか非上場企業から、ある程度規模の小さい中堅中小企業を見れるだろうと。福岡銀行グループに親和銀行と熊本ファミリー銀行あり北部九州全体回れるかなと。
そういう思って福岡銀行に行って2年ほど働いた。経験としては良かったんですけど。中央青山と福銀ですね。ただ、自分の勘違いをした瞬間なんですよ。この2つって。
どういうことかというと、専門家として働く事と経営者として働く事は全く別なんですよ。周りはみんな専門家なもんで、難しい仕事とか金額がでかい仕事をやるのが偉い。みたいなそんな雰囲気が組織にあるんですよ。なので、公認会計士として成功したければそんな専門知識を持つ。より難しい仕事をするのが成功だという感じなんですよ。社風が。
だから監査法人にいる時も、福銀にいる時もそーゆー専門性の高い、難しい仕事をなるべく。それを経て独立した29歳。今から6年前ですね
■で独立して最初の1年目は、普通に専門家として働いてました。どういうことかと言うと、銀行で例えば事業再生ですとかM&Aとかそういう案件がありました。その依頼を受けて外部の専門家というポジションで行ってやる。ということを1年やってまして挫折。割とほんとに挫折しました。
まず第一にきついんですよ。自分が全部やんなきゃいけない。自分がやらなければ収入ゼロだし、でも誰かに振るかと言えば振れないしという状態でした。一生これをやるのかな。自分が50なっても60なってもやっぱり専門家として前面に出て、作業しなきゃいけないのはどうなんだろう。
と思ったところに民主党政権に変わったんですね。で、金融円滑化法という法律ができまして。事業再生というか金融機関との交渉というか、普通にリスケジュールとか通るようになって、専門家にいちいち頼む必要ないよね。と言う雰囲気になりまして。割とリアルに仕事がなくなりまして。
独立したわけですから、一応自分は経営者だって肩書き上は思っているんですね。ところが仕事があったにしても、全部自分でやんなきゃいけない。それは果たして経営者と呼べるんだろうか。疑問がすごくありまして、同時に事業再生とかやってますと、当然相手の社長とかと話すんですよ。
ふくぎんの取引先の中堅企業の社長と話が合わないんですよね。こっちは財務の専門家として行ってますから、財務の専門家の話をするんですね。そうすると全く話が噛み合わない。
最後は事業再生ですから会社の経営を立て直さないといけないんですよ。ということは財務の専門家としてはこっちは気持ちんですが、それが経営にいいのかは全く別なんですね。
そのギャップが結構辛いというか。何か自分いろいろがんばってやってるけども、果たして会社のためになってるんだろうかと。
という疑問を結構持ってまして、29歳のときに何か違うな違うなと。せっかくそれまでキャリア積んできたんですけども、何かどうも間違っていたような気がする。で、ガバッと変えようと。
それが30歳位の時ですね。5年ほど前に自分の会計事務所の経営者として1音1音11行生きる。専門家であるという事は1回もちょっと捨てておいて、経営者として会計事務所の経営者として生きるんだ。
経営者としての結果を出して、そうすれば次に専門家として接する時も、自分は会計事務所の経営者としてこれだけ結果を出しています。その上、自分は専門家の立場で話してます。
と入れた方が向こうからしても、あぁそうか。経営者の立場からしても、こいつ自分より稼いでないのに偉そうにしてるのでいらっとする。でなく、この人ちゃんとやってる。
まあそういうことで、一旦、専門家としての自分は捨ててしまって、経営者として生きようかなということをやり始めたのが30歳です。そっからの5年間で今みたいな美容室と飲食店だけやりますよ。と言うビジネスモデルを1個作った。
このビジネスモデルを他の会計事務所に売っていくと。なことをやってるような状態に至っている。
ビズネスモデルを他の事務所で売ろうと言うことを決めて始めました。それは何故かと言うと、経営者なんでビジネスモデルとしてちゃんと作れてないとダメだなと思ったんです。
ビジネスモデルとして成立しているという事は、誰か他の人にやらせても一応仕組みとして回っていると。その実験みたいな感じなんですよね。
他の人に売っても成果を出させることができるかどうかと言うことがあったので、1人売れる物を作らなければだめだろうと言うことでやり始めた。それが30歳で今に至っていると。
で5年経った今のうちの事務所、どんな感じかと言うと、ほんとやりたくないお客さんは全部断るんですよ。やりたくないと言うとちょっと語弊があるんですけど、うちは美容室か飲食店しかやりませんよと言っている。他の業種なら基本やらない。
エリアもかなり絞ってますので、この範囲しかしませんよ。エリアが遠いと言われればやらないと。
他にも例えば、性格が合わない人っているんですよね。近くの美容室、営業エリア内の美容室でも、なんかちょっと合わないのは無理ですとのこと。
サービス内容もこちらが決めるというか、これしかしませんと。サービス内容自体もかなり絞り込んでいます。これ以外の事はもうしませんと。
広告宣伝費も0円。うちは広告出したりとかはしてないんですね。税理士業界はウェブマーケティングとかファックスDMとか結構やるんですけど、うちは一切しません。
成約時の紹介だけ。これがすごく楽なんですけど、他の事務所と競合しないんですね。まあ税理士会計士は美容師や飲食店はやりたくないんですよ。めんどくさいっていうかいうか、先方に事務員もいないしですね。なんで、ライバルは誰も来ないんですね。いまだに。提案書の作ってないんです。名刺の裏だけ。あと何件増やすかコントロールできますし、スタッフの人数も、どういう働き方をするかもコントロールできる。なぜそれが可能なのか、詳しく話をしていきたいと思います。現状の事務所はこんな感じです。
※あなたの今の仕事は、何才頃から意識してました?