「常にスルーされた。結婚のアテもなく、仕事では責任も期待もされない。人生を切り拓く術もなく諦めていた。周囲は次々と結婚したり婚約したり」暗黒のOL時代。があっての脚本家・作家で成功!
■武蔵野美術大学卒業後は、伯父さんが勤務していた「三菱重工業」にコネで入社。
実は、内館さんは、2、3年勤めたら、エリート社員と結婚して寿退社をするつもりだったそうで、そのため、ネコをかぶって、結婚相手を探そうと思っていたそうですが・・・
「海が見たいわ」ではなく、「相撲が見たいわ」という内館さんに、男性たちはひいてしまい、また、内館さん自身も、力士のような体格が好みだったことから、
社内で夫は見つけられないなあ
と、寿退社を諦めたそうです(笑)
■「日本相撲協会」に転職希望し何度も電話
ところで、内館さんがしていた仕事は社内報の編集で、会社もすごくいい会社だったため、仕事を頑張る気持ちはあったそうですが、当時、女性は、責任のある仕事を任せてはもらえず、
こういう仕事がしたい
と、訴えても、女性には、その部分は求めらていなかったことから、27歳くらいの頃、転職を考え始めます。
ただ、転職と言っても、内館さんの得意なことといえば、相撲のみ。
そこで、「日本相撲協会」に電話をかけて、
床山(力士の髪を結う人)になりたい
と、訴えたそうですが、女性はダメと断られてしまいます。
それでもあきらめきれず、「馬簾(ばれん)」(化粧まわしの先についている房)を女性が作っていると聞きつけると、またもや「日本相撲協会」に電話。
しかし、これも断られてしまい、今度は相撲記者の道を考え、スポーツ新聞や専門誌に片っ端から電話をされたのですが・・・
やはり、全部断られてしまい、
どん詰まりだなあ
と、落胆されたのでした。
■シナリオライター養成学校に通う
そんな内館さんは、28歳の時、偶然見つけた、シナリオライター養成学校に通い始めます。
ただ、内館さんは、脚本家が作家の一種だとはまったく想像しておらず、むしろ、原作をドラマに再現する「職人」だと思っていたため、職人なら腕を磨き、一生できると考えていたのですが、
実際通い始めてみると、物語を自分で作らなければならないことにびっくりし、また、自分で物語を作るということが、恥ずかしく感じられたそうで、
映画なども見ず、得意なものが相撲しかない内館さんは、「親方誘拐事件」や、「嵐山」という廃業した元力士が恋人のみっちゃんと屋台を引く物語を作っては、講師にあきれられていたのだそうです。
NHKで脚本の指導を受けラジオドラマを手掛ける
こうして、シナリオライターとしても混迷してしまった内館さんは、もうすぐ30歳になろうとする頃、パック旅行で、アメリカ・ニューヨークを訪れたそうですが、
ニューヨークの摩天楼や、書類を片手に闊歩(かっぽ)する女性を見て、
私、何をしているんだろう
と、頭を殴られたような気がしたそうで、
このことがきっかけとなり、本格的にシナリオライターを目指すことを決意。
会社勤めするかたわら、真剣にシナリオ作りに取り組むようになると、その努力が実ったのか、時期は不明ですが、脚本コンクールで佳作を受賞し、このことがきっかけとなり、NHKのプロデューサーの勧めで、NHKで脚本の指導を受けると、ラジオドラマを手掛けることに。
そして、やがては、会社勤めとシナリオライターの二足のわらじは難しくなり、ついに会社を退職することを決意されたのでした。
「向田邦子になります」と会社を退職
ただ、退職願は書いたものの、良い会社だったため、何週間も提出できずにいたそうで、もし、一人でも退職を反対する人がいたならば、会社を辞めていなかったと、後に振り返っておられるほど、内館さんは悩まれたそうです。
実際、内館さんが、真剣にシナリオに取り組み、退職を悩んでいたことを知っていたためか、両親も、「三菱重工業」に勤めていた伯父さんですら、反対しなかったそうで、
ついに、内館さんは、退職したい旨を会社の課長に伝えると、課長はびっくりし、呆然とした顔で内館さんを見つめ、
課長:脚本家になる……って、そんなものに急になれるのか
内館さん:なれません
課長:仕事はあるのか
内館さん:全然ありません
課長:なら、ここにいろ。危ないことするな
内館さん:でも決心しました。会社は居ごこちがいいので、今やめないとずっと居ますから
課長:その方が親も安心だろ
内館さん:でも、決心しました。大丈夫です
(課長は黙り、私も黙った。)
課長:決心が固いか……。いつやめる気だ
内館さん:6月10日
課長:変な日だな。7月の給料とボーナスをもらってからやめろ。これから生活大変だぞ
内館さん:私、ボーナスもらってやめる女子社員ばかり見てきて、下品だなってずっと思ってました。ボーナス前にやめます
(課長は大声で笑った)
課長:7月31日付だ。いいな
(正直なところ、有難かった。)
課長:まだ部長には話さないでおく。気が変わったら、いつでも俺に言え
内館さん:ありがとうございます。でも、やってみます
課長:そうか……。もし、食えなくてもヘンなバイトするな。俺に相談しろ。いいな
私はこんないい上司と別れようとしている。胸に迫った。
と、内館さんは振り返っておられます。
そして、内館さんは、1983年7月31日、35歳の時、みんなの前で、
「私はきっと向田邦子になりますす」
と、挨拶。
ふと見ると、課長は眼鏡を外して涙をふいていたといいます。
■「バラ」での菅原文太の一言を励みに
こうして、会社を退職し、シナリオライター一本となった内館さんですが、最初の頃は、講談社と小学館の漫画雑誌の余白に先週のあらすじを書く仕事で、書くことで得る年収は、なんと、たったの2万円。
その後、どうされていたのか、詳しいことは分かりませんでしたが、
(橋田壽賀子さんのお手伝いでは、「お金がなくてつぶれる人がいるから」との理由で、破格の原稿料をくれたこともあったそうです)
1987年には、テレビドラマ「バラ」のオファーを受けられると、菅原文太さんが出演予定ということを知り、「仁義なき戦い」が好きだった内館さんは、
やります!
と、二つ返事で引き受けます。
(菅原さんのほかに、岸恵子さん、菅原さんの息子さんなど、そうそうたる顔ぶれだったのですが、当時は、内館さんのような、新人の脚本家にもチャンスがもらえたのだそうです)
そして、1988年(執筆は1987年)、40歳の時、テレビドラマ「バラ」でシナリオライターデビューを果たされたのですが・・・
経験が乏しかった内館さんは、本来であれば、原稿用紙220枚くらいで済むところを、監督からのOKがなかなか出ず、何度も書き直しをさせられ、最終的には1000枚以上書かかれたそうで、
ああ、私は脚本家としてもうダメかもしれない
と、落胆。
しかし、内館さんがロケに同行した際、初対面だった菅原さんに挨拶され、菅原さんが一言、
あなた、面白いよ
と、言ってくれたそうで、
その言葉がシナリオライターとしての原点となり、何よりも励みとなり、今でも忘れられない言葉となったのだそうです。
その後、石田純一今井美樹「思い出に変わるまで」や朝ドラ「ひらり」で大成功。70代の今も「終わった人」「すぐ死ぬんだから」などベストセラー連発。