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衝撃の結末「サイゴンから来た妻と娘」近藤紘一

衝撃の結末◾️羽田の記者クラブにいた時、サイゴン支局の近藤紘一から「家族が行くのでよろしく」と連絡があった。「サイゴンから来た妻と娘」はその日の夕刻、羽田に着いたが、彼女らはもうすぐ消滅する南ベトナムの旅券を持っているだけで、日本の入国ビザはなかった。近藤との結婚証明書もなく、入管を説得して2人を仮上陸させるのにずいぶん苦労した。そんなこともあって帰国してからの近藤とあれこれ話をするようになった。サイゴンで結婚した妻ナウのことも結構詳しく話してくれた。どこかに書いていたように、ナウはベトナム人の夫がいて、 ...

小さな会社向けセミナー③

小さな会社向けセミナー②

小さな会社向け3日連続セミナー①

兵庫の青年会議所でセミナー講師

昨夜は兵庫県の龍野青年会議所で「小さな会社の稼ぐ技術」成功事例のウラ話100連発!参加者のノリが良く、私も最初から調子に乗って脱線しまくり。でも本も全部売れた。あざっす!動画は以下コメ欄に。 たつの市人口7万人だが、日本一の揖保乃糸やランドセルのセイバン、ヒガシマル醤油の本社も。以下商工会議所のサイトより ◾️ 龍野には醤油・素麺・皮革と伝統的な三大地場産業があります。 醤 油 龍野の醤油の起源は1587年。龍野が発祥の地である淡口醤油は、色が薄く煮た食材に色が付かないため、精進料理や茶懐石料理に最適とさ ...

インドの路上火葬場に来て見た

以下2枚目の写真に足が。インドの路上火葬場ガンジス川のワーラナーシー202306月

インドの路上火葬場ガンジス川ベナレスへ

インドは貧しい。平均月収2万円は東南アジア以下。でも世界一の人口14億人ステイハングリーパワー凄い。仏教のブッダやイギリス首相の他、Google、Adobe、Microsoft、IBMのCEOもインド人。頭はイイし英語ペラペラで安い労働力は中国を軽く超える。アメリカも抜いて2050年GDP世界一あり得る。首都ニューデリーと路上火葬場バラナシ4-5日程度歩いただけだが。インド人優秀説は検索で沢山

バンコクのスラムへ潜入

スラム探訪。カンボジアのシアヌークビル

 

発展のベトナムホーチミン視察

成功事例

ユニクロ創業の安かろう悪かろうの頃

柳井さん肉声ユニクロ創業〜安かろう悪かろうの頃。私が初めてユニクロで買ったのは1995年頃。すぐボロになって驚いた。それを承知の上で柳井さんはやってたんだ。客も。不良品売っても稼ぐ。そういう度胸が必要な時はある?オレは騙しウソダメw

■1984年ユニクロ1号店の商品は、当時全盛だった岐阜のメーカーものが中心で低価格、これがベースで、インポート商品を目玉にしていた。どちらかと言うと品質より値段優先だった。ほとんどがメンズのティーンズカジュアル専門店といった品揃え。郊外店を出し、1号店と同じ品揃えをしたのだが、客層が変わったのが分かったので、商品も徐々にベーシックなもの、幅広い客層向けシフトしていた。

カジュアルウェア=普段着は、いつでも誰でもどこでも自由に着られる服装。普段着として単品の完成度をあげれば、どんな服装にでも合わせられる。上から下までユニクロで揃える必要は無い。他のブランドと組み合わせることができる。こうして、男女の別なく着られる無理セックスのカジュアルウェアが大量に売れれば、大成功のはず。現実はそう甘くないのは承知の上だが、できればそんな商品を自分たちで作ってみたいと思い始めた。3号店、4号店を出した頃だった。

メーカーから仕入れてくる商品は、安いが品質は二の次だった。商品が出始めると、メーカーを経由して海外で作ってもらうようになった。その段階では、品質管理体制が整っていないため、どうしても不良品が含まれてしまう。仕入れ値が低いので、まともな商品をきちっと作ろうとすると生産工場は儲からないからだ。こうなったら自分たちで本格的に生産管理をし、現地で直接作らないとだめだな、と思うようになっていた。

■ユニクロ1号店を出す前の1980年頃、アメリカの大学生協に立ち寄ったことがある。学生が欲しいものをすぐにでも手に入れられるような品揃え、それでいて接客が入らない。セルフサービスだ。フランクなと言う商業的な匂いがしないし、買う側の立場で店づくりされている。本屋やレコード店と同じようにすーっと入れて、欲しいものが見つからない時は気楽に出ていける。こんな形でカジュアルウェアの販売をやったら面白いのではないかと思った。

ただ単にセルフサービスと言うと「わが社は経費節減のためにやっています」と言う感じがして嫌なので、お客様の要望としてのセルフサービスの店が理想だ。それがわが社のモットーになるヘルプユアセルフ方式だった。

本屋やレコードショップを求められない限り、接客はしない。その分、お客様の欲しいもの欠品しないようにする品揃えする。そういった買いやすい環境を作ることに手すれば良いのだ。欧米のカジュアルショップでも接客はしていたが、なるべく接客することなくカジュアルウェアを得る。こんな店を作れないだろうかと考えていた。

■1980年代に入るとアメリカではリミテッドとかギャップとか、チェーン店として売り上げ数千億円とか1兆円を超えるような目覚ましい伸びをする会社が現れた。同時に、巨大スーパーやディスカウントストアなどのセルフサービスの店が伸びてきた時期である。

1983年前後には、日本でもDCブームが巻き起こっている。つまりデザイナーブランドやキャラクターブランドの高価な洋服が売れ始めた時期でもあった。だがDCブランド商品は、10代の子供たちには高くて手が出ない。

10代の子供たち向けに流行に合った低価格のカジュアルウェアを、セルフサービスで提供できないだろうか。次第に店舗と商品のイメージが固まっていた。いつでも服を選べる巨大な倉庫と言う意味も込めて、店名「ユニーク・クロージング・ウェアハウス」も決まった。

■店舗を徐々に増やしていったら、資金繰りはいつまでたっても楽にならない。低価格を売り物にしているので商品の回転数が勝負だ。当時は金がないので、すぐに売れそうな商品を仕入れ、早く売る。売れないものはシーズン中に値下げしてでも振り切る。決して翌シーズンまで持ち越さない。商品バイヤー毎週、岐阜、名古屋、大阪のメーカーの問屋を回って、見切り品を仕入れてくることもあった。当然、100%買取だ。店が増えていくので、売れ筋商品を確保するのはますます大変になる。

従来の衣料品業界では、民間や卸業者の企画した商品を選択肢でバイイングし、委託販売する方式が一般的であった。委託販売方式が、商品が売れ残れば返品可能で、小売業者にとってリスクが少ない反面、リスク回避の分だけ仕入れ原価に上乗せされるために粗利益は低い。それを維持しようとすると売値を高くせざるをえない。

結果、少々高い買い物をする可能性がある。また、商品企画がメーカーや卸業者主導になりやすいため、小売店舗での商品構成に一貫性がなくなり、かつ販売価格もメーカーや卸業者の指示に従わざるを得ず、小売業者は自由な価格設定もできない状況だった。

販売価格を小売店がコントロールするためには、別注を増やすしかない。店舗数を増やし、バイイングパワーを作るのと同時に、自主企画商品をメーカーへ製造委託する方式=別注を取るしかないのだ。海外メーカーに委託するには発注量がまとまらない届けてくれない。おまけに、メーカーへの返品は不可なので100%完全買取になる。リスクを全部自社で背負いこむことになるので、売れない商品を企画発注してしまうと、当然命取りとなる。

1985年のプラザ合意以降、円高が進む。1986年から急激な円高となり、メーカー品やブランド品が安く売られても良いはずなのに、現実はそうならなかった。

■そんな時、小売店の視察をしに香港へ行き、「ジョルダーノ」のポロシャツが目に止まった。低価格の割に品質が高い。「これだ!」と思った。ジョルダーノ創業者のジミー・ライ氏に会いに行った。

もともと彼は、アメリカの衣料品専門店チェーン(リミテッド)のセーターの生産も請け負っていた。彼は、僕と同じ年齢。失礼を承知で言うと、「ぱっと見はたいしたことないおっさんが大した事やっているな」と言う感じだった。この人にできて、僕にできないはずはない。そう思った。彼からは「商売には国境がないこと、製造と販売の境がないこと」を学んだ。

中国共産党の革命が起きて、上海近郊で工場を経営していた人々が、中国本土から当時英国が装飾していた香港に逃げてきて、香港や東南アジア1年に工場を作り始めた。そこに欧米のバイヤーがやってきて、商品を企画発注する。輸出が増えていく。こんな構造になっていった。香港のメーカーには合理とメーカーの境がなく、欧米のブランド品の請負工場やりながら氷もしている。僕らが日本でやっている商売よりももっと進んでいて、こちらの方がはるかに成長性が高いのではないかと気づいた。自分たちもそういうことをやらないといけない。僕の場合は小売出身なので生産はできないが、メーカーに委託した場合の生産管理は可能だ。可能と言うより、品質の高い商品を作るためには必須なのだ。

まず、1987年にはユニクロオリジナル商品を手がけてみようと思いだす。社内にはデザイナーのパタンナーもいないので、仕様書は手書きでいい加減なもの。これをメーカーに製造委託する。まだ生産管理はこちらでできないため、メーカー品に負け、最初に付けた価格で忘れずに、結局、値下げ販売が多くなった。海外ブランド品をディスカウント価格で打ち出し、チラシで訴求する、と言うスタイルはしばらく続く。1988年3月には香港に商品のバイイング事務所を作り、現地法人香港の人と合弁で立ち上げた。

後の話だが、生産管理の担当者を募集したところ、スポーツ用品メーカーに勤めてはいたが、その会社の中では傍流と言えるアパレルの生産管理経験者の古谷さんが入社してくれた。1993年1月のことである。その後、彼を慕って同社から3人が次々と当社に転職。その人たちを中心に中国に駐在してもらった。自分たちで商品を作る環境が整い始めた。

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