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インドの路上火葬場に来て見た

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インドの路上火葬場ガンジス川ベナレスへ

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バンコクのスラムへ潜入

スラム探訪。カンボジアのシアヌークビル

 

発展のベトナムホーチミン視察

ルサンチマン

第四章 営業

2社目。リクルート人材センターへの転職

●公務員試験の前にバイトでもするか

本気で決断したのではなかったが、とりあえず警察官採用試験の参考書を買ってきた。ただ、試験は来年の夏だ。それまでには半年以上も時間がある。ヤマハを辞めたことは実家には話していないし、恥ずかしくて田舎には帰れない。当分、この東京に居続けねばならぬ。そのためには稼がねば。

何かバイトでもしようと、週刊就職情報という求人誌をめくっていると、日本リクルートセンター(現在の(株)リクルート)という会社が、原稿取材のようなアルバイトを募集していた。

日本リクルートセンター? 下宿にダンボールで山のような就職情報雑誌を送ってきた会社だ。自分は大企業しか行かないと決めていたから、情報源はダイヤモンド社の上場企業ガイドしか見ず、リクルートブックはほとんど見ずに捨てていた。

仕事はあの雑誌に載っている企業情報を取材することか。なんだかよくわからないが、取材バイト程度ならできるかも。大学時代、ゼミ論文で外食産業の実態取材でいくつかの会社に訪問して取材したことがあった。バイトだし、気軽に受けてみるかと試験へ応募。

ところが、試験会場へ行って驚いた。たかがバイトの試験なのに、面接官が6人もいる。なんでだろうと思いながら、ヤマハを辞めた理由や自己紹介を、どうせバイトだからと脚色することなく平然と話した。

結果は日本リクルートセンターではなく、その子会社のリクルート人材センターでの採用通知。バイトだし、別に本社でも子会社でもなんでもいい。

こうして西新橋にあった(株)リクルート人材センター(現在のリクルートエージェンシー)へ出社した。通称RJC。本業は民間人材銀行、転職を考える人の相談にのり、その人にあった会社を紹介する人材バンクだ。

しかし、私が配属されたのは新しくできたばかりのKD課という部署で、仕事は週刊就職情報の求人広告営業だった。営業?取材じゃないの?お客さんは?ゼロ?自分で探す?どうやって?

とりあえずは飛び込みでビルを廻ってみて?飛び込み営業?そんなことが俺に出来るはずがない。営業先が決まっていたヤマハ発動機の、バイク屋さん周りのルートセールスでさえダメだった俺。でもまあバイトだし、とりあえずやってみるかと。

人材募集をする会社から求人広告をもらう仕事。その求人ニーズがある会社をどうやって探すか。まず、やってみたのが飛び込み営業。名刺を持ち、担当エリアである東京都中央区、港区、千代田区の目に付いたビルに飛び込み、受付で「リクルートの栢野と申します。求人広告の案内に来ました。人事担当の方をお願いします!」。

100件廻っても担当者に会えるのは1割くらいで、会っても席に座って話が出きるのは2、3件。大半は「間に合ってます。いりません!」と断られる。こりゃー厳しい仕事に就いたなあちうのが第一印象。

しかし、ヤマハ時代と違うウキウキした気持ちが芽生えてきた。厳しいが楽しい。

同じ営業でも全然違うことに気づく

ヤマハ時代は、相手がいらないといってもバイクを押し込み営業しなければならなかった。売る相手は自分の担当エリアの国分寺、府中、国立にあるバイク店だけ。そこに会社で決まったノルマの台数を、在庫として毎月買ってもらわねばならない。店頭で売れた分を補充するだけでなく、空いたそのスペースはホンダやスズキにとられないよう、バイク屋の親父に頼み込んでヤマハのバイクを置いてもらう。

私はこの、相手が「いらない」というのに、無理に頼んで買ってもらうというのがものすごく嫌だった。相手が希望する時に希望する台数だけ買ってもらう。しかし、そんな待ちの姿勢では、ホンダやスズキに店頭シェアを奪われる。理論や理屈を越え、バイク屋の親父に気に入ってもらい、同じバイクならヤマハを店頭に多く並べ、来たお客にヤマハのバイクを優先的に薦めてもらう。

そのためには、ヤマハの営業マンとして、出きる限りバイク屋のためになることをしなければならない。店頭でよりよく良くバイクが売れるように、様々な販売促進策を提案するなど。

そう持っていくのが本来の営業の使命だったのだろうが、私は単にバイク屋に顔を出し、何の提案もなく、ただお願いしますとだけしか言えなかった。新人だったこともあるかもしれない。その後の人生で出逢った他の多くの営業マンも、基本的にはこちらの事情などヒヤリングすることもなく、ただパンフレットを出して、コピー機はいかがですか、保険は、金の先物は、と、ただ買いませんかとお願いするだけの営業マンが多い。

そういう意味では、私も数多くいる新人営業マン、ダメ営業マン、お願い営業マンと変わりなかったのかも知れない。
とにかく営業マンとは屈辱的な存在だ、相手がいらないと言うのに買わせる。無理矢理売りつける。相手に気に入られるよう、こっちが興味もない話にも微笑んで相づちを打ち、もみ手で相手の機嫌を伺い、可愛がられるような存在にならねばならない。営業とはそういう仕事だと思っていた。

新規開拓営業は面白い!

このリクルートの求人広告営業で、以前のヤマハ時代と大きく違ったことは、いらない相手には売らなくて良い、会わなくて良いということ。ヤマハの場合は、嫌な相手にも毎週会わなくてはならなかった。ルートセールスというのはそういうもの。

しかし、この求人広告の新規開拓営業の場合、お客はゼロ。自分で見つける。求人の予定がない会社には売りつけても仕方ない。「求人広告はいかがですか?」「今はいいよ」もちろん、断り文句であることも多いのだが、こういういる、いらないがはっきりしたところが心地よかった。

訪問して「うるさい!帰れ!」「間に合ってる!」「忙しい!仕事の邪魔をするな!」みたいなことを言われることも多かったが、それはそれで今後は行かなければいい。

ヤマハの場合は「来るな!」と言われても行かねばならなかったし、嫌な客、自分と会わない客にも顔を合わさねばならなかったが、この新規開拓飛び込み営業では、営業先は自分で選べる、自分が主導権を取れることが私にはうれしかった。

飛び込みを始めて1カ月、今だ注文はゼロだったが、「俺は自由だ!」。町中でそう喝采したこともあった。何とか3カ月目に飛び込んだ秋葉原の電子部品商社「サフジ電子部品」から女性事務員の募集で「とらばーゆ」1/4ページの受注をしてから、本格的にこの新規開拓営業が面白くなった。

飛び込み方法も徐々に、無差別ビル営業から、職安や新聞求人をリストにしたものに変えていき、面会効率・受注確率も高くなっていった。職安に求人を出すのは無料であり、金や予算の少ない企業は、まずは職安に求人票を出す。その求人票は誰でも無料で閲覧することが出来、私は定期的に職安廻りをしてリストアップした。

また、新聞への求人広告はポピュラーなものだが、朝日新聞や読売新聞はタバコの箱サイズで数十万円する。もちろん、発行部数も求人情報誌の何倍も多いのだが、サイズが小さいので詳しい求人情報は載せられない。有名企業は社名と職種程度でも集まるが、無名の中小企業はわずかな情報では差別化が出来ず、集まりにくかった。

そこを突いて、新聞に求人を出している企業に電話して「新聞広告を拝見しましたが、反応はどうですか?御社は特殊な技術をお持ちですが、その情報を伝えるには大きな求人広告スペースが必要です。我々の就職情報は新聞と同じ値段で5倍のスペースが取れ、新聞より発行部数は少ないですが、読者は皆熱心な求職者です。読者層も若く、会社選びも知名度より中身を重視します。一度、掲載を考えていただけませんか?」とアポを取ったり、リストに基づいて飛び込みをした。

仕事を通じて勉強できる

しかし、新聞広告や職安リストは多くの求人誌営業マンがやっていたので、客先でバッティングすることも多かった。そこで私は、新聞広告ではなく新聞記事をリストにすることも考え、実行に移した。

つまり、新聞の経済面などで「山川商事が新規事業を計画。営業網を現在の2倍に拡大する予定」とか「何々会社が新商品を開発!」などの発展情報を切り抜き、104の電話で電話番号を調べ、「実は今朝の新聞記事を拝見したんですが、担当者をお願いします」というと、かなりの確率で話が出来た。

記事リストの場合は我々同業求人誌他社とのバッティングも少なく、相手も記事を見たということで親しみを持ってくれ、会いやすかった。私は朝一に出社し、誰よりも早く日経新聞、日経産業新聞、日経流通新聞、日刊工業新聞、電波新聞、その他専門誌も読みあさり、リストアップしてアプローチした。

この新聞を中心とした情報集めは浅く広くだが、結果として様々な業界の知識に詳しくなり、私の知的欲求を大いに満たしてくれた。新聞や雑誌や本を読んだ知識があるので、企業の担当者や社長に会った時に質問程度はできるようになり、先方は好奇心はあるが業界のことを知らない小学生に物を教えるかのごとく、こちらが聞きもしないことまで話してくれることが多々あった。

机上の勉強、情報収集に加え、お客からも様々な業界の勉強が出来る。それは学生時代に憧れていた新聞記者、ジャーナリスト、ルポライターのようだった。注文がもらえなくても、様々な講義が受けられる、知識に、勉強になる。かつ、求人広告の効果が上手く出れば、お客からも感謝される。

「沢山の応募があったよ。良い人が採用できたよ、ありがとう!」。それはもちろん社交辞令が多かったのだろうが、営業先のお客からそういうお礼を言われることは、ヤマハ時代はなかった。バイクをバイク屋に届けて、売って当たり前。バイクメーカーとバイクを現場で売る仕事は表裏一体で、その間を取り持つルートセールスマンは、バイク屋にとっても使用人のようなもの。というか、皆がそうではなく、仕事が出来ない俺がそう成り下がっていたに違いないのだが。

営業にやりがいを見つける

とにかく、このリクルートの求人広告営業は面白かった。同じ営業でもこうも違うのか。ヤマハの場合はバイク屋という決まったお客に定期的に顔を出すルートセールス。リクルートの場合は、お客は一から探し出す新規開拓営業。ヤマハの場合は、工場で出来た商品をそのまま売るだけ。営業マンには商品を改良する余地はない。ホンダがヤマハよりも素晴らしいバイクを出した場合、営業段階ではその商品自体は変えようがない。

リクルートの場合は、求人広告はお客に合わせて違う。作り方で商品が変わる。原稿は制作スタッフが作るのだが、営業マンの取材の仕方、原稿の作り方、広告の出し方で効果が変わる。そこに営業マンは参加できる。商品作りに関われる。「週刊・就職情報」という完成品はあるが、中の一つ一つの求人広告は、担当の営業マンと制作スタッフとの手作り。まさにこれが企画営業だ。これは私にとって大きなやりがいになった。

また、私が配属されたのは採用企画課という部署だったが、会社の中で一番新しい部署で、既存顧客がほとんどない。メンバーもほぼ全員が新人。大企業や大口の中堅企業は先輩営業マンが抑えていて、結果として、中小企業やベンチャー企業、新規設立企業を開拓するしかなかった。

しかし、これも私の知的好奇心を大いに満たしてくれた。大企業の場合、求人広告の担当は総務や人事スタッフが窓口だが、中小ベンチャー企業の場合、人事採用権は社長自らが担当することが多く、面会時の話が面白かったのだ。

大企業に比べると当然、会社の規模も小さく、入居ビルやオフィスもボロいが、やはりゼロから会社を創り上げてきた創業者の話はスリリング。出来上がって安定した会社よりリスクも多いが、これからまだまだ成長していこうとする意欲や夢や可能性に触れられ、自分も相手の会社の成長に参加することができる。

また、大半の中小企業の社長は学歴もなく、職歴も大企業ではなく中小企業を数社転職していて、結果として独立起業している場合が多かった。就職した大企業一筋でエリート街道をまっしぐらのみが人生の成功と思っていた私にとって、中小企業への転職や独立起業という選択肢もあるのだと気づいたのもこの頃だ。

リクルートという会社に惚れた

さらに、会社自体が面白かった。本体の(株)リクルートは昭和35年創業だが、私が昭和58年に入社した子会社(株)リクルート人材センターの創業は昭和52年。会社が若く、伸び盛りで成長あるのみ。朝は7時台から営業会議やロープレ、夜も9時10時までの残業が普通で、その営業体制は体育会的なイケイケガンガンスタイルだったが、それは私にも好感が持てた。

毎日、毎週、受注状況や目標達成の発表があり、皆からは拍手喝采の嵐。社内は受注を祝う垂れ幕や棒グラフが咲き乱れ、誰がどれだけ実績を上げているかも一目瞭然。各種目標達成の表彰も毎日のごとくあり、私も皆から認められたい、拍手を浴びたい、賞賛されたい、スターになりたいと、気づけばリクルートの仕事に没頭していた。

こうして入社3カ月くらいの頃には、当初の公務員までのアルバイトという意識は完全になくなり、この会社で頑張っていきたいと思うようになっていた。

リクルートという会社は、昭和60年代にリクルート事件という大きな挫折はあったものの、当時から現在まで成長を続ける優良企業として名高い。創業者・江副浩正のカリスマ、求人やその後の住宅情報、車、他への広告分野での革新的な商品開発が成功の要因といわれているが、私が思うに、社員のモチベーションアップが格段にうまいと思う。明るく楽しく、限界までチャレンジする環境作り。創業者精神を鼓舞し、早期退職制度を30才から40才の間に導入し、結果として大半の社員は40才までに転職か起業する。

創業者メンバーは東大教育学部の心理学科出身が多かったが、後から考えると、集団への所属欲求、皆からの認知、自己実現など、まさにマズローの欲求5段階説をそのまま実行に移していた。

バイト・契約社員という身分に負い目

入社半年を過ぎ、まあまあの業績をコンスタントに上げられるようになり、時給制のアルバイトから月給制の契約社員に格上げとなった。リクルートはアルバイトでも名刺を全員持ち、対外的には正社員として振る舞う。私の在籍当時は、従業員の約5分の3がアルバイトか契約社員。そういう意味ではアルバイトや契約社員でも社内では肩身は狭くなかったが、外部に対しては後ろめたかった。

友人知人からは「ほー、リクルートに転職したの?」「いや、正社員ではなくて契約社員なんだ」「ふーん(で、いつ正社員になれるの)」「・・・」と曖昧な返答しか出来ず、お客さんにもいつバレるかドキドキしていた。企業の大事な人事採用関係の仕事をバイトや契約社員がしている、なんだ正社員じゃないのか?とか言われるのが恐かった。

しかし、バイトや契約社員から正社員になるには相当難しかった。当時の基準は「同年齢のトップクラスの実績を上げている正社員と同等の実績をあげていること」が不文律の基準。多くのバイトや契約社員が正社員への転向を希望したが、まずは社内の推薦がいる。が、その推薦は滅多に出ず、入社1年以内に退社する者が大半だった。また、受けても合格するのは数パーセント以下。

対外的には一流企業の仲間入りしつつある成長企業・リクルートの正社員、が、実態はバイトに毛の生えたフリーター。私は正社員になることを渇望したが、推薦を受けられる時期を待たねばならなかった。

以前、「下流社会」という本がベストセラーになった。バブル崩壊後の実力社会の本格的な到来で、収入の格差が拡大。下流下部の人は、正社員ではなくアルバイトや契約社員、派遣社員であることが多いと解説され、正社員でないから当然収入も身分も低く、将来性も見込めず、結果として結婚にも踏み切れない。まさにそうだと思う。

当時25歳前後の私は何度も恋愛感情を持ってアタックしたが失恋ばかり。その大きな原因の一つは、俺はまだバイト・契約社で正社員ではない。身分は不安定。このままでは結婚できない、結婚する資格はないと潜在意識、顕在意識でも思っていた。

同じような仕事をして、時には実績も社員以上に上げているのに、俺は3カ月ごとの契約社員。正社員になりたい。しかし、なれるかどうかわからない。では他社に転職するか。しかし、なかなかリクルート以上に魅力を感じる会社がない。1年が過ぎ、そこそこの成績も上げるようになった。特に新規開拓の件数では社内で1、2位を常に争うようになってきた。

営業方法も徐々に進化した。?飛び込み営業→?リスト営業:職安・新聞や他の求人雑誌→?日経や日経産業新聞などの記事→日経ベンチャー倶楽部など経営者の交流会へ参加。電話や面会時のセールススタイルも進化した。

最初の頃は、初めからいきなり名刺とパンフレットを見せて売り込みしたが、徐々にヒヤリングスタイルへ変えた。つまり、最初は相手の状況をヒヤリングすることに徹したのだ。電話でも、「リクルートの栢野です。ビーイングいかがですか?」ではなく、「どうもリクルートの栢野です。いつも求人広告の営業電話がかかってきて大変でしょう?」「そうなんだよ。ほんとにあなた達はしつこいねえ」で笑いが出ると話がスムーズに進んだ。

正社員試験に落第し、号泣

そして入社2年が経った頃、社内論文大会の「シーガル・コンテスト」が開催された。各部署での自分の活動を論文にまとめて発表するというもので、応募は必須ではなかった。俺は正社員じゃないし、高校までは作文は大の苦手。応募はしようと書き始めたが、〆切が迫っても進まず、会社の床に寝ころんで「あー、ダメだ、書けない」と嘆いたことをよく覚えている。

私は中央理研、データプローブ、ベーリンガーマンハイムという会社への新規開拓受注営業の論文というかルポをなんとか書き上げた。全然期待してなかったが、なんと私の論文が社内第2位になり、賞金も15万円ほどもらった。まさか自分がそんな作文で賞をもらえるとは思いもしなかった。

が、後で読み返すとなかなか面白い。私は「日記」の効用が少しは出たなと思った。前にも書いたように、私は高校時代まで作文というものが苦手で恐怖だった。そこで大学に入学したのを契機に、私は日記を書くことと多くの本を読むことを自分に課した。日記は日々の出来事とその思いや気づいたことを書くことが多かったが、結局は自分自身のルポルタージュ日記になり、現在の文章で食うことに繋がっている。が、この文章を書くことで稼げると気づいたのは、その10年後の35才なのだが・・・・。

営業実績では社内トップではなかったが、新規開拓ではトップクラス。かつ、論文大会で「シルバーシーガル受賞」というのは自他共に認める実績となり、上司の推薦をもらって、ついに待ちに待った正社員試験を受けることになった。昭和60年の2月、入社から2年2カ月後のこと。

正社員になるということは、親会社の(株)リクルートの正社員になるということ。まずは(株)リクルート人材センター内の推薦を受け、(株)リクルートの人事部面接、次ぎにリーダー面接を順当に通過。明日は最終の取締役面接という日、社内のメンバーと前祝いの飲み会を実施、当日の面接に臨んだ。

が、数週間後の結果はアウト。正社員試験に落第。私はヤマハ発動機に続き、リクルートの社員としても落第し、愕然とした。試験に落第ということは、速やかに退社するということになる。自分のデスクに戻り、周囲を何気なく見渡した。忙しく働いている同僚や先輩が見える。私は仕事も好きだったが、共に励まし合うこの人達も大好きだった。

でも、俺は同志として失格の烙印を押された。お別れの時期が来たのだ。もう、一緒に働けない。そう思うと、不意に涙が溢れてきた。嗚咽が停まらない。自分でも驚いたが、俺はこんなにもリクルートを愛していたのだ。上司の澄谷さんに応接間に連れていかれ、私は大いに泣いた。それまでの人生でこんなに泣いたことはない。

が、泣きながらおぼろげに、明日からどうしよう、次の会社を見つけねばならないのだなと、試験落第とは違う苦い思いが湧いた。

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-ルサンチマン

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