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一風堂ファウンダー講演レポート

9/17「世界の一風堂」ファウンダー河原成美セミナー1時間+質疑応答2時間。テーマは「無我夢中」だけじゃ自己啓発セミナーなので、合間に戦略戦術の話題も。が、会場の音響チェックミスで音が割れた。録画も。まぁでも創業期〜中小時代の素晴らしい話オンパレード。■期間限定で音割れYouTube動画を公開。

宮崎9/13セミナー交流会

★緊急特別企画★ ≪演題≫「小さな会社★儲けのルール」成功事例100連発by栢野克己氏 4年振りくらいにベストセラー作家で講演家の栢野さんが宮崎に来ます。 今回も事例100連発?で宮崎の経営者を元気づけてもらいます。 フライングで参加表明している方もいますので、迷わず即決で参加申込みしてください! 毎回一週間で満席になる人気講師です! ◆日時:9月13日(火)18時30分~20時30分 ◆会場:宮崎県婦人会館3F「おすず」 宮崎市旭1-3-10(県庁近く) ◆会費:3000円(税込) ※当日の受付混雑を防 ...

ブルースリー完全再現

8/26自作自演セミナー(会場とFacebookライブ)がコロナで?キャンセル続出(お前の実力不足たい)。焦って何かせねば!少林寺の師匠をパクってTikTokやYouTubeに投稿。アホが引っかかるのを待つ。まぁ11人参加で形にはなる8/26詳細は以下↓コメ欄■好きな夏はいつもクーラー入れず全裸フリちんです。

世界の一風堂創業者「私の履歴書」起業ストーリー。成功失敗のウラ話100連発!+質疑応答

①最初のバーひとり起業3つの目標設定 ②ひとりで月商500万円どう集客したか? ③未経験ラーメン技術はどう身につけた? ④ライバル多数の豚骨で差別化したこと ⑤居酒屋タコ焼き他、多角化の失敗 ⑥レジからお金抜かれても文句言えず ⑦オレが入る店は売上増だが他店は減る ⑧複数店舗のマネジメント手法 ⑨天職に目覚めたのは44歳 ⑩年商1億3億10億の壁。そして100億 ・他に何か聞きたいことありますか? 2017年の講演↑ 参加申し込み者は■起業失敗借金“夜逃げ”厨房機器を“盗んで”再起業の西日本トップの唐揚げ ...

七転び八起きで人生は逆転できる!

はじめに どうも!小さな会社お店個人事業主専門の成功事例作家です。私は大企業から中小ベンチャーなどサラリーマン7回就職転職失敗し、8回目の今は小さな自営業で独立起業25年目です。 著書は「小さな会社の稼ぐ技術」(日経BP社)、「小さな会社☆儲けのルール」(フォレスト出版)、「弱者の戦略」大逆転バカ社長」(経済界)など8冊25万部。その何割かは台湾・韓国・中国・インドネシア・ベトナムでも翻訳出版されてます。 今や大企業サラリーマン向け一流コンサルタントのビジネス書もも平均1万部売れませんが、サラリーマン失敗 ...

無料・天草でセミナー+経営人生計画発表会

  「チラシ?任せますよ」で届いた。盆明けに号外配ると。何だこの小さな写真は?これは世界一周のイエメンで街の壁を“ドラゴン危機一髪”キック!左足をも少し引き上げれば完璧だが。って写真を当時のlivedoorブログで見つけたようだ。このノリが素晴らしい。2日で9時間。セミナー+人生計画+経営計画を一枚書いて各自発表+参加者から無責任な感想意見アドバイス+愛のバッシング! 天草セミナー9/15-16の詳細はコチラ

夢や目標を叶える方法

夢や目標を叶える方法の一つに、夢や目標を公言する「積極的自己宣言」があります。そんなの恥ずかしいから自分の心のうちに秘める。も控えめな日本人には多いでしょう。でも、「皆に言ってしまうと引っ込みつかなくなり、やらざる得ない」「怠け者のオレは夢や目標や経営計画を公言することで、初めて年商が2億になった」byやずや創業者。以来毎年、経営計画書を作って、従業員に加え、取引先や銀行や友人知人を呼んだ発表会を開催。その後は社員全員で朝礼時に毎朝読み上げ唱和。私が広告業でやずやに出入りするようになった1993年は年商2 ...

東京8月セミナー(会場+Facebookライブも)

【残8】福岡ライブ(会場+FBライブ)楽しかった!ので東京でも。前回の様子。冒頭の動画50分公開中 ■2022年8/26(金)18:30-20:30 その後交流会 ■会場20名・Facebookライブ10名 ※コロナ対策で間隔空けます。 ■会場は秋葉原の神田佐久間町イオン「まいばすけっと」東神田ビル4階 会場で3000円支払い ■懇親会はセミナー後に各自1階まいばで飲食500-1000円買って会場で立食懇親会。 ※セミナーより参加者同士の交流メイン。各自の自己紹介後は自由に。 ※セミナー18:30-20: ...

福岡セミナーは盛況でした

冒頭50分無料公開↓以下コメ欄 ■あざっす!やっぱ濃厚接触接近戦サイコー!が、zoomにも15名ほど申込でしたが、何度も練習したiPadのzoomアプリが繋がらない!やばい!急遽iPhoneで繋げてokに。参加者はライザップも指導した通販コンサルの岡崎さん、西日本トップの博多とよ唐亭豊永社長、お礼ハガキ通販ホワイトベース小串さん、硬派スピリチャル講演家石田さん、大阪王将のLINE戦略も指導する23歳起業家、美容店10店舗経営の元ホスト?、さえない損保代理店だが不動産副業で3億資産家、地場トップ年商10億の ...

増刷あざっす!これで16万部に。

今朝気づいた印税の振込。担当者が3月に退社して後任未定で?増刷連絡もなし。でも入金あざっす!8年間Kindle印税未入金のK出版社もw。33万円はたぶん2016年の青本新版3000部増刷だ。下のKindleはほぼ毎月なので、2002年の初版から総計で16万部ぐらいか。韓国台湾タイ翻訳も含めると。これも1998年から「本を出す」と夢シートに書いて毎年挫折して書き溜めて2002年に実現した。当初は竹田陽一ゴーストライターの依頼だったが「共著にして下さい!」FAXに1分後「アンタが書くんだから著者も印税もあなた ...

成功事例

ユニクロ創業の安かろう悪かろうの頃

柳井さん肉声ユニクロ創業〜安かろう悪かろうの頃。私が初めてユニクロで買ったのは1995年頃。すぐボロになって驚いた。それを承知の上で柳井さんはやってたんだ。客も。不良品売っても稼ぐ。そういう度胸が必要な時はある?オレは騙しウソダメw

■1984年ユニクロ1号店の商品は、当時全盛だった岐阜のメーカーものが中心で低価格、これがベースで、インポート商品を目玉にしていた。どちらかと言うと品質より値段優先だった。ほとんどがメンズのティーンズカジュアル専門店といった品揃え。郊外店を出し、1号店と同じ品揃えをしたのだが、客層が変わったのが分かったので、商品も徐々にベーシックなもの、幅広い客層向けシフトしていた。

カジュアルウェア=普段着は、いつでも誰でもどこでも自由に着られる服装。普段着として単品の完成度をあげれば、どんな服装にでも合わせられる。上から下までユニクロで揃える必要は無い。他のブランドと組み合わせることができる。こうして、男女の別なく着られる無理セックスのカジュアルウェアが大量に売れれば、大成功のはず。現実はそう甘くないのは承知の上だが、できればそんな商品を自分たちで作ってみたいと思い始めた。3号店、4号店を出した頃だった。

メーカーから仕入れてくる商品は、安いが品質は二の次だった。商品が出始めると、メーカーを経由して海外で作ってもらうようになった。その段階では、品質管理体制が整っていないため、どうしても不良品が含まれてしまう。仕入れ値が低いので、まともな商品をきちっと作ろうとすると生産工場は儲からないからだ。こうなったら自分たちで本格的に生産管理をし、現地で直接作らないとだめだな、と思うようになっていた。

■ユニクロ1号店を出す前の1980年頃、アメリカの大学生協に立ち寄ったことがある。学生が欲しいものをすぐにでも手に入れられるような品揃え、それでいて接客が入らない。セルフサービスだ。フランクなと言う商業的な匂いがしないし、買う側の立場で店づくりされている。本屋やレコード店と同じようにすーっと入れて、欲しいものが見つからない時は気楽に出ていける。こんな形でカジュアルウェアの販売をやったら面白いのではないかと思った。

ただ単にセルフサービスと言うと「わが社は経費節減のためにやっています」と言う感じがして嫌なので、お客様の要望としてのセルフサービスの店が理想だ。それがわが社のモットーになるヘルプユアセルフ方式だった。

本屋やレコードショップを求められない限り、接客はしない。その分、お客様の欲しいもの欠品しないようにする品揃えする。そういった買いやすい環境を作ることに手すれば良いのだ。欧米のカジュアルショップでも接客はしていたが、なるべく接客することなくカジュアルウェアを得る。こんな店を作れないだろうかと考えていた。

■1980年代に入るとアメリカではリミテッドとかギャップとか、チェーン店として売り上げ数千億円とか1兆円を超えるような目覚ましい伸びをする会社が現れた。同時に、巨大スーパーやディスカウントストアなどのセルフサービスの店が伸びてきた時期である。

1983年前後には、日本でもDCブームが巻き起こっている。つまりデザイナーブランドやキャラクターブランドの高価な洋服が売れ始めた時期でもあった。だがDCブランド商品は、10代の子供たちには高くて手が出ない。

10代の子供たち向けに流行に合った低価格のカジュアルウェアを、セルフサービスで提供できないだろうか。次第に店舗と商品のイメージが固まっていた。いつでも服を選べる巨大な倉庫と言う意味も込めて、店名「ユニーク・クロージング・ウェアハウス」も決まった。

■店舗を徐々に増やしていったら、資金繰りはいつまでたっても楽にならない。低価格を売り物にしているので商品の回転数が勝負だ。当時は金がないので、すぐに売れそうな商品を仕入れ、早く売る。売れないものはシーズン中に値下げしてでも振り切る。決して翌シーズンまで持ち越さない。商品バイヤー毎週、岐阜、名古屋、大阪のメーカーの問屋を回って、見切り品を仕入れてくることもあった。当然、100%買取だ。店が増えていくので、売れ筋商品を確保するのはますます大変になる。

従来の衣料品業界では、民間や卸業者の企画した商品を選択肢でバイイングし、委託販売する方式が一般的であった。委託販売方式が、商品が売れ残れば返品可能で、小売業者にとってリスクが少ない反面、リスク回避の分だけ仕入れ原価に上乗せされるために粗利益は低い。それを維持しようとすると売値を高くせざるをえない。

結果、少々高い買い物をする可能性がある。また、商品企画がメーカーや卸業者主導になりやすいため、小売店舗での商品構成に一貫性がなくなり、かつ販売価格もメーカーや卸業者の指示に従わざるを得ず、小売業者は自由な価格設定もできない状況だった。

販売価格を小売店がコントロールするためには、別注を増やすしかない。店舗数を増やし、バイイングパワーを作るのと同時に、自主企画商品をメーカーへ製造委託する方式=別注を取るしかないのだ。海外メーカーに委託するには発注量がまとまらない届けてくれない。おまけに、メーカーへの返品は不可なので100%完全買取になる。リスクを全部自社で背負いこむことになるので、売れない商品を企画発注してしまうと、当然命取りとなる。

1985年のプラザ合意以降、円高が進む。1986年から急激な円高となり、メーカー品やブランド品が安く売られても良いはずなのに、現実はそうならなかった。

■そんな時、小売店の視察をしに香港へ行き、「ジョルダーノ」のポロシャツが目に止まった。低価格の割に品質が高い。「これだ!」と思った。ジョルダーノ創業者のジミー・ライ氏に会いに行った。

もともと彼は、アメリカの衣料品専門店チェーン(リミテッド)のセーターの生産も請け負っていた。彼は、僕と同じ年齢。失礼を承知で言うと、「ぱっと見はたいしたことないおっさんが大した事やっているな」と言う感じだった。この人にできて、僕にできないはずはない。そう思った。彼からは「商売には国境がないこと、製造と販売の境がないこと」を学んだ。

中国共産党の革命が起きて、上海近郊で工場を経営していた人々が、中国本土から当時英国が装飾していた香港に逃げてきて、香港や東南アジア1年に工場を作り始めた。そこに欧米のバイヤーがやってきて、商品を企画発注する。輸出が増えていく。こんな構造になっていった。香港のメーカーには合理とメーカーの境がなく、欧米のブランド品の請負工場やりながら氷もしている。僕らが日本でやっている商売よりももっと進んでいて、こちらの方がはるかに成長性が高いのではないかと気づいた。自分たちもそういうことをやらないといけない。僕の場合は小売出身なので生産はできないが、メーカーに委託した場合の生産管理は可能だ。可能と言うより、品質の高い商品を作るためには必須なのだ。

まず、1987年にはユニクロオリジナル商品を手がけてみようと思いだす。社内にはデザイナーのパタンナーもいないので、仕様書は手書きでいい加減なもの。これをメーカーに製造委託する。まだ生産管理はこちらでできないため、メーカー品に負け、最初に付けた価格で忘れずに、結局、値下げ販売が多くなった。海外ブランド品をディスカウント価格で打ち出し、チラシで訴求する、と言うスタイルはしばらく続く。1988年3月には香港に商品のバイイング事務所を作り、現地法人香港の人と合弁で立ち上げた。

後の話だが、生産管理の担当者を募集したところ、スポーツ用品メーカーに勤めてはいたが、その会社の中では傍流と言えるアパレルの生産管理経験者の古谷さんが入社してくれた。1993年1月のことである。その後、彼を慕って同社から3人が次々と当社に転職。その人たちを中心に中国に駐在してもらった。自分たちで商品を作る環境が整い始めた。

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