今日は有楽町の相田みつを美術館に行ってきました。先日、一風堂のパーティで長男の相田一人さんと会った時に頂いた招待券で。これで3回目。飽きませんね。で、画像検索してたらこんなのが。驚!ホンモノでしょうか?相田みつをがブレイク前からつきあってた仏教学者紀野さんの本に「知人に食えない書家がいる。これが女遊びばかりしていて」みたいな記述がある。相田みつをは若い頃イケメン。ホントのような気が。だからこんなのも書いたのか?以下は2007年のブログに書いたエッセイ
■ 「私は無駄にこの世に生まれてきたのではない。また、人間として生まれてきたからには、無駄にこの世を過ごしたくはない。私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだ。それが社会的に高いか低いか、そんなことは問題ではない。その仕事が何であるかを見つけ、そのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに人間として生まれてきた意義と生きてゆくよろこびがあるのだ」昭和35年12月みつを
・・ということは、相田みつをが36歳の時。60歳で初の著書「にんげんだもの」が出て、その後10年で100万部を越えて食うに困ることが無くなる、はるか以前の「明日の米どころか今日の米にもこと欠く」頃の、日々が極貧の頃の書。この書にあえて題を付けるとすると、オレの大好きな「天職」ではないか。
組合職員や書道教室の先生を捨て、30歳前後から「書で独立起業」した相田みつをだったが、個展や旅館への飛び込み営業だけではなかなか食えない。独自の「書」一本で食っていくと決意していたが、果たして、これがオレの天職なのかと悩んでいたのだろう。いや、一時期は書とろうけつ染めをミックスした菓子店の包装紙デザインなどから収入を得ていた相田だが、「書」だけで生きることが天職とは決めていたはず。
しかし、現実はギリギリの生活。自分では「これしかない!」が、対外的には「これが私の生きる道」とは言えなかったのか。いずれにせよ、苦悩と覚悟と希望と決意が入り交じり、なんとも味わい深い。誰もが同じように自分に言い聞かせた経験があるのではないか。35歳前後はそういう年齢であり、オレも2度目の独立は36歳の時で、当時の広告代理業が「俺の天職!」とは言えなかった。手がけた広告はもらった広告料以上の反応を叩き出し、自分の広告企画・コピーには自信はあった。しかし、なんとも言えない違和感があった。
それが何かは当時はわからなかったが、今ははっきりとわかる。それはいくら頑張って効果を出し、売上を上げても、所詮は広告「代理業」だったからだ。クライアントの代わりに広告物を仕上げてメディアに出稿する。当たり前だが、それは他人の天職創造の手伝いであり、下請だったからだ。相田みつをも食えないときは包装紙デザインをやったが、本業の「書」では、人から頼まれた言葉や書を書くことはなかった。自分が思う自分の言葉の「書」しか書かなかった。まさに自分オリジナル。
しかし、今気づいたが、相田みつをは食うためにデザイナーをやり、オレも食うために広告代理業をやっていた。オレは営業とコピーライティングだったが、なんと!同じ業種の仕事じゃないか。
★さらに驚くべきは、息子の一人さんが書いた「父 相田みつを」を読んでいたら、「・・父は収入のために個展を開いていたが、できれば売りたくなかった。・・・・では収入はどのように得ていたか・・・意外なくらい、父は若い頃から講演に出かけている。・・・書の作品の<凝縮>の高まりと、それを発散するための講演活動は、相関関係にあったような気がする。・・作品を生み出す緊張感を保つためにも、講演という解放の場の必要性が高まったのだろう。多いときには月に数回、毎週のように全国各地に出かけていった。当然、講演をすればいくばくかの謝礼をいただくことになる。現実的にはそれが収入となっていたのだろう」172p
なんとも、オレと相田みつをは似ている!素晴らしい!やはり、著書100万部は夢ではない。が、相田さんがそれを成し遂げたのは死後。オレは40代のうちに成し遂げたいね。
しかし、相田みつをとオレの決定的な違いは、相田さんはあくまで「書」を残すのが第一で、書を集めた本の出版はずっと断っていた。本の大きさに縮小された書は書ではないと。が、1980年56歳の時に、書に惚れた兵庫県川西市の米田建築が創立記念誌に書を特集した「雨の日には雨の中を 風の日には風の中を」が口コミで10万部を越え、その記念誌に打たれた松本瑠樹というメンズファッションブランド「バツ」創業者が、なんと私費で編集制作し、文化出版局に持ち込んで生まれ、初版の大半は松本さんが買い取った。それが、のちにミリオンセラーとなる「にんげんだもの」だ。他の書を含めると、累計500万部くらいになってるんじゃないかな。
相田みつをには金銭欲はなかった。最低限生活できれば、あとは人生のすべてを自分の「書」「言葉」を書くのに全精力を注ぎ込んだ。貧乏な頃も、成功?したあとも、どんなに金を積まれても頼まれても、他人から頼まれた言葉の書は書かなかった。勿論、書をまとめた本を100万部!なんて思ってもいなかっただろうし、売れた後もその手の欲にはまったく興味なかった。
(これはある意味、理想的な生き方。しかし、凡人が真似るとすぐに破綻だ。結果論だが、相田さんは書道業界の革命児・天才だった。そう。その生き方は清貧だ。女遊びもしたそうだが、こと仕事に関しては清貧を貫いた。清貧。素晴らしい生き方。仏陀もマザーテレサもガンジーも、その手の人は皆、清貧だ。しかし、その生き様を貫くには、相当の覚悟が必須。でもオレもその手のタイプなんだよな)
で、実はオレも、大きな声では言えないが、これをいうとまた妻が怒るし、30人の株主や様々な関係者に迷惑かけるのだが、はっきり言って最低限食え、たまに安い海外放浪できれば、それ以上の金にはあまり興味ない。食い物や服や住まいや車は最低限でいいし、中洲や女遊びにも実は興味ない。性欲はあるが、「ぷにゅぷにゅ」で充分。はっきり言って、時間が惜しい。勿体ない。年収目標も1500万とか書いてるが、普段の生活は年収300万で暮らせるし、年収500万なら毎年200万余り、それでたまに世界や日本放浪できればいい。
それも自分が好きなことを話す講演と本で食えれば最高だ。その合間に、独立起業に悩む人の相談に乗り、本人が望む収入が得られ、まさにこれが私の天職ですと言えるような人の、相田みつを的な起業家の、最低限の人生経営コンサルもしながら、「ありがとう」と言われ、でもそれは余興で金なんかいらない。売ってるDVDやCDも、本当は全部タダにしたい。講演料も印税も、本当は興味ない。
贅沢に興味はないので、あとは好きに自由に生きたい。相田光男(本名)のように、金のことは考えず、自分の好きな書や言葉を書き、結果として読者がなにがしかの救いや感動やヒントが与えられればいい。貧乏や挫折も大歓迎だ。その適度な苦悩と迷いが人生経営を考えざるえない状況に追い込み、さらなる作品が産み出せる。
・・・・なーんてことをたまに言うと、小学生の子供を抱えて日々現実生活を営んでいる妻は「どうでもいいけど、あなたの好きなようにやっていいけど、最低限のお金は稼いで!今後は食費も教育費もかかるんだから」というが、妻も贅沢には興味ない。だから今までもそうだったが、本の印税や講演で最低限食えるようになると、次から次ぎにボランティア接近戦が増えまくる。今もそうだが、そんな時には本の依頼も山ほどいただく。
が、接近戦を最優先し、本を書くことは後回しになり・・・。
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東京丸の内にある相田みつを美術館は、常設作品の展示室や、ゆっくりと語れるカフェとともに、ミュジアムショップがあり、相田さんの作品集や、長男一人さんの文庫本、あるいは作家の解説書など大手出版社が競って発行した書籍がずらりとならんでいます。また、相田さんの作品にかかわる色紙や、DVDビデオ、CDカセット、ポストカードからのれんや手ぬぐいまで、はては心の書としては読めないような字の携帯ストラップまでいろいろなグッズが販売されています。もちろん通信販売もされています。作家の故・立松和平さんは「思想の語り部」と相田さんを美しく評価されています。しかし、生前の相田みつをさんを知る私には、美術館の中にも、立松さんの評の中にも、相田さんをみつけることはできませんでした。あまりにも商業的な作品や、作為的に美化されてしまっているからです。私が相田みつをさんと出逢えたのは、昭和五十二年の秋、京都の小さなみやげ物屋でみつけた一枚の色紙『生きていてよかった』との出逢いからです。当時母はいろいろな悩みをかかえて、生きることに苦しんでいました。そんな時、体に障害を持つ末弟が、同じ障害を持つ女性と結婚式をあげました。その夜、車椅子から降りた母が「生きていてよかった」とポツリといいました。色紙との出逢いからの仏縁で、私達の会社の創立十二周年記念誌として、相田さんの始めての作品集『雨の日には雨の中を風の日には風の中を』が生まれました。朝日新聞日曜日の夕刊で当時の記事『心のページ』に紹介されたのがきっかけで、その後の十年で十万部を全国のみなさんへ郵便にておとどけいたしました。平易でやさしいことば。だれにでも読めるやわらかい文字。それでいて見る人の心に人間的ふかい共感を与える。これが相田さんの作品で、相田みつをさんその人の生きざま、人生感ではなかったでしょうか。その後の昭和五十九年に、相田さん生前中の作品集として、文化出版局より『にんげんだもの』が発行されミリオンセラーとなりました。つまづいたっていいじゃないか。人間だもの。にんげん我欲のかたまり。にんげんのわたし。なやみはつきないなあ。生きているんだもの。書家・詩人として、誰のまねでもない、自分の書、自分の言葉を求めつづけ、自分の弱さや甘さを正直にさらけだす。それが相田みつをさんその人の、にんげんだものではなかったでしょうか。平成三年十二月、少々の無理が重なり脳内出血により足利市にて永眠。享年六十七歳。■以上は米田建築株式会社 代表取締役 米田典夫
以下より転載 http://www.tax-pro.co.jp/gallery/gallery-1725-25273.html
相田みつをを最初に世に出したのはオレだ!しかも10万部もタダで!費用かけて!その後にミリオンセラーになって悔しい?
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(2004年4月)18日付のある新聞紙面掲載の記事が話題を呼んでいる。コラム「声」の欄だ。広島在住の母娘が門出に対し最高のプレゼントを頂く場面が載っている。詳細は何れだが「出逢いが最高のプレゼント」にかわる。素晴らしいことだ。84年に出版された「にんげんだもの」(文化出版局)の大ヒットが、相田みつをの名を全国に知らしめた。しかし、これより先の80年、まず評判を呼んだのが、「雨の日には雨の中を 風の日には風の中を」兵庫県川西市の米田建築が、創立12周年に発刊した記念誌で、67頁をみつをの書が占めた。同社の米田典夫社長が、京都・嵐山のお土産店で「生きていてよかった」と、書かれた、みつをの色紙を見つけ、その場で50枚の色紙を買い取った。2年後に記念誌を作る段になって、初めて米田社長はみつをと顔を合わせる。足利市の岩下書店、岩下隆一氏は「感動というのは本当に人間を動かすんですね(当時75才会長職)」と、この記念誌をめくりながら語ったそうだ。岩下さんは、東小学校(現在は廃校)、旧制足利中学校(現在の県立足利高校)で、みつをの1年後輩だった。岩下さんの知るみつをは「相当人間くさい」と。「すまないがこれでいくらか都合してくれないか」。岩下書店に風呂敷包みを担いで、みつをが姿を現したのは、70年の暮れ。風呂敷の中身は額縁に入った書の数々だった。翌年の年賀状には岩下さんへの感謝の気持ちに加え、「雨ニモ負ケタ風ニモ負ケタ…」と窮乏生活を恥じながら、一方でそれを笑い飛ばす軽妙な文章が続いた、と。みつをは、敬愛する高福寺(同市家富町)の武井哲応住職の講話を聴く「円融会」を設立。道元の「正法眼蔵」や、武井住職の言葉を引用した会報「円融だより」を2カ月に1回発行。市立山辺小学校や足利高校のPTA役員も務めるなど社交的な一面もあった。背は高く往年の時代劇スターを思わせる風貌で、話術にも長けている。「もてるタイプですよ!」と岩下さんは笑う。しかし、アトリエでは繊細で孤独な芸術家の顔を見せた。岩下さんがうずたかく詰まれた反古を見て「一枚くらいもらってもいいでしょう」と言うや、みつをの目の色が変わった。「こんな作品を外に出したら恥だ!」「疲れれば疲れたと肩を落とすし、可笑しければ笑いころげる。喜怒哀楽は、はっきりしてましたね」。結局そんな表情豊かな生活が、人を感動させる書を生んだのではないかという。
以上の出典は https://1sp.jp/sp66
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■相田みつをWikiの生涯は以下
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E7%94%B0%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%82%92
本や全国での予定は以下
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■2/9宇都宮 測量機器青年部
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