「七転び八起き」で人生は逆転できる!【1】
■連帯保証1億円!
それは一本の電話からだった。平川さんという、亡くなった父が勤めていた福岡シティ銀行時代の後輩で、当時は地場中堅ゼネコンの副社長。
私は就職・転職・起業で失敗を繰り返し、6社目となる東京の出版社「ビジネス社」で、テープ起こしのバイトをしていた33歳。
「克己さん、私はあなたのお父さんが取締役時代、大変世話になった者です。実は、あなたのお母さんが1億円の借金をかぶり、土地も差し押さえになりました」
「えー!?何ですか?それは!」
「お母さんが、ある男の連帯保証人になっていたのですが、その男が返済せず、請求がお母さんのところに来たのです。一度、こちらへ帰って来れませんか?」
実家が1億円の借金?土地が差し押さえ?そんなバカな。嘘だろう。悪夢のような話だ。しかし、博多へ帰ってみると現実だった。
母が連帯保証した相手は佐賀県唐津市和多田の浦川清史。年齢は60代前半の妻子持ち。職業はフリーの地上げ屋。地上げ屋!権利などの入り組んだ土地をまとめ、マンション用地などにする裏方の仕事。暴力や脅しでの立ち退き・・ヤクザというイメージもある。
平成4年1992年当時、世間ではバブル崩壊という言葉が流行っていた。私自身はほとんど実感がないが、1980年代前半から好景気が続き、80年代後半は株や土地が高騰。
それが1991年前後、平成3年頃から下落し始め、不況とかバブル崩壊とかいう言葉が使われるようになっていた。
地上げ屋の浦川が借金した相手は、博多駅南の「エビス信販」と「なにわ商事」。いわゆる高金利でお金を貸す街金、高利貸しだ。
約1億円にのぼる借金を浦川が返済しなかったので、街金は連帯保証人である私の母に請求。かつ、福岡市の中心部、大名にある先祖代々の栢野家の土地も差し押さえた。
Uターン後に登記簿謄本を見ると、裁判所による「競売開始決定」も記載されていた。
母が他人の連帯保証人として1億円の借金をかぶり、土地も差し押さえになった。このままだと家屋敷を全部取られる。相手は地上げ屋と街金。
さらに、母とその妻子ある地上げ屋は「できて」いた。こんな火曜サスペンスドラマのような出来事、ホントかよ。
しかし、私は平川さんと一緒に母、弁護士、司法書士、街金、浦川清史に会ったが、全部事実だった。かつ、浦川は資産も金もないこともわかった。
借金1億円!・・・といっても実感が湧かない。どこか他人事のような感じ。
地場相互銀行の取締役だった俺のオヤジは1975年、44歳の時に脳血栓で倒れ、2週間で亡くなった。詳しくは知らなかったが、財産は福岡市早良区野芥にある一戸建て、西新の2LDKマンション、福岡シティ銀行の株券が数万株に現金少々。そして福岡市のど真ん中の天神地区、大名に17坪の土地があった。
実は今回の騒動の原因はこの大名の土地だった。この土地は、父と同じく福岡シティ銀行の前身である福岡無尽銀行の取締役だった祖父から父が相続し、父の死後は母に相続された。
私は知らなかったが、成長著しい福岡都心の土地ということで、バブル時代の1980年後半には、なんと坪2500万円の値が付いた。と言っても正式な話ではなく地上げ屋からの話。17坪だと約4億円。
そういえば1990年頃、母との電話の中で、そんな値が付いたという話があったが、私は実家の財産には感心はなかった。私の中では実家とか親とか故郷は年末年始に思い出す程度。
仕事が定まらずに東京や大阪を転々とし、失敗だらけの人生だったが、故郷へのUターンは一度も考えたことはない。なんとか東京で成功しようと、いつも目の前のことで精一杯だった。
■狂った母。狂う俺
それにしても、母はなんで地上げ屋なんかとつき合ったのか。ある日、母をつかまえて尋問した結果は、驚くようなことだった。
出逢いはその7年前。西新のパチンコ屋という。西新とは私が高校まで育った街で、福岡市内では天神・博多駅に続く副都心。昔ながらの屋台も多く出る商店街があり、海も近くて進学校も多い。そこに小中高と過ごした銀行社宅アパートがあったので、私ら家族には第2の故郷だった。
父の死後、1年後に長男の私が大学進学で京都へ。その後、次男も就職で東京へ出た。結果、母は購入した西新の2LDKマンションに一人で住んでいた。「一人」で。
しかし、出逢いがパチンコ屋とは。サイテーの場所だ。俺も昔はたまにパチンコをしたが、基本的にはああいう場所は不良やダメ人間が行くものと決めつけている。
父の死後も億単位の財産があるので働く必要はなく、私ら子供が巣立ち、暇になった1980年代半ばから、母は自然とパチンコ屋の常連になったらしい。
同じく常連だった浦川と顔見知りになり、ある日、浦川は母に3万円を借りた。が、浦川はすぐに返したという。その後、また5万円の借金申し込みがあったが、これまたすぐに返済された。
そんな貸し借りが何回かあったあと、母は30万円を貸した。すると浦川は期限通りに返済しただけでなく、「自宅にバラの花束を持ってきてくれたのよ?」と母は遠くを眺めながら、懐かしそうに、半ばうれしそうに、後悔もなさそうに言った。
これで母は「落ちた」のだと思った。典型的な詐欺師の手口だ。
こうして母は浦川と男女の仲になった。浦川は唐津に妻子がいたが、浦川が福岡方面で仕事する場合は母の家に住むようになった。
「パパと好みが似ているのよ。私が作る味噌汁とか料理がうまいうまいって・・・」
私は耳を疑った。
「それにパパは忙しかったでしょ。(浦川と)あちこち一緒に旅行に行って楽しかった」
母の愛の告白。サイテーだ。
私は今回の件で浦川と数回会ったが、その獣のような60男の顔姿を思い出し、かつ、50代後半の母が近年、以前よりキレイになっていたのを思い出した。
オスとメスとの交わり、母と浦川のセックスを想像し、なるほど、このメスはあのオスの陰茎にやられたのかと、異常な汚らわしさを感じた。そしてドンドンやられていき、気づいたら1億円の連帯保証人になっていたのだ。
数億の資産を持つ元銀行役員の未亡人が、妻子ある悪徳地上げ屋ブローカーと恋に落ち、いまやその財産を奪われようとしている。女性週刊誌やワイドショーのような話。他人事ならば「人の不幸は密の味」。なんとも痛快というか、絵に書いたような醜聞事件だ。
ある時、実家マンションで母を詰問した後、ふと、玄関の靴箱を開けた。果たしてそこには男物の革靴が山のようにあった。明らかに浦川の靴だ。母が浦川と暮らしていた何よりの証拠。そして、母が承諾している証拠。愛の暮らし。堕落の証明。
それは俺の実家に棲んでいる獣のもの。あの鬼畜が身につけている、汗がしみ込んだクサイ靴。見つけて10秒も経っていなかっただろう。私は靴を次々につかんで外のゴミ捨て場所へ投げ捨てた。「この野郎!」と雄叫びを上げながら。憎しみを込めて叩きつけるように。いや、叩きつけた。
自分の縄張りに入り込んだ、ライバルのオスを排除する動物本能でもあった。おれ達の財産を奪い取ろうとしている悪人、俺の実家、俺の古巣に入り込み、占領し、母と財産を奪い取った獣のオス。
狂ったように靴を投げ捨てる俺を、母は呆然と見ていた。首をうなだれながら。仕方がないと自分の罪を認めるように。
■父のいた銀行へ駆け込む
とにかく、連帯保証1億円をかぶったのは事実。つまり、栢野家は債務者・浦川清の代わりに、早々に「なにわ商事」と「エビス信販」に計1億円を弁済せねばならない。
しかし、そんな金は手元にない。私自身は思考能力がなかった。それは母も同じ。茫然自失。事件発覚以来、事の全貌解明と対処策はほとんど平川さんが代行してくれていた。私らは平川さんの言うとおりに行動した。他に、こんな面倒な事件を解決してくれる人はいなかった。ある意味で、平川さんは亡き父のようだった。
事実、平川さんがこんなにいろいろ面倒見てくれるのは、俺の親父の部下で世話になったこと、住宅会社に転職した平川さんから野芥の家を購入したこともあるが、ある意味では母の近くにいて、今回の事件を防げなかった負い目がある、恩人の奥さんを救えなかった自分にも責任があると言っていた。
私と母は平川さんに連れられ、福岡シティ銀行の本店へ行った。そこには父の同僚で、副頭取を経て監査役になっていた森田さん、野口専務、他の銀行役員が数名待っていた。今回の恥ずかしい事情を話し、なんとか救済してもらえないかと。平川さんが状況を説明し、私と母は下を向いてうなだれるだけ。
救済策とはこうだ。西新のマンション、野芥の一戸建て、大名の土地など全財産を担保に入れて銀行から1億円の融資を受け、金利が高くて怖い街金へ弁済。その後、土地や家の売却、株券の処分などで銀行側へ返済する。
幸い、土地や家の価値は計算上、合計で1億円以上ある。まあそもそも、今回の事件は財産があったからだ。あったから狙われたのだ。財産がなければ1億の連帯保証人にはなれない。なっても返済する原資がない。浦川のように。
浦川は落ちぶれた地上げ屋だったが、浦川の父は資産家で、唐津の和多田地区に相当な土地を持っていた。ありがちな話だが、浦川の代になって絵に書いたような放蕩息子ぶりを発揮し、すべての資産を消滅。それどころか、私らをはじめとして方々から借金し、完全に落ちぶれてしまっているという。いわゆる資産家のバカ息子だ。
しかし、それは俺も同じ。親の資産こそ食いつぶしていなかったが、銀行エリートのバカ息子として、甘い考えと堪え性の無さ、根性の無さで就職・転職・起業に失敗。落ちぶれてしまっているのは同じ。
かつ、不倫をして堕落した母を罵倒したが、実はその頃、俺も東京で人妻と不倫していた。親子で不倫のバカ同士。そんな駄目な自分と同じような浦川に、実家を破壊されて歯がゆい気持ちだ。目くそ耳クソを笑うか。
今回の福岡シティ銀行側に対する直接の債務者は母。しかし、私と弟、それに平川さんも連帯保証人となることになった。土地や家は計算上は借金以上の価値があったが、これで私も1億円の借金を背負う羽目になった。
借金1億円!
想像がつかないね。かつ、こうなっても他人事という感じ。当事者ではない。自分のせいではないし、平川さんがあれこれ対処してくれるおかげで、余計そう感じる。母も俺も自分の意志で考えて行動することがほとんどなかった。上の空。手取り足取りされると人間は成長しないね。適当に放っておくのがいいね。
それにしても借金1億円をかぶるなんて。個人レベルでは大事件だ。実は帰郷してすぐ、通りかかった福岡県早良警察署に駆け込んだ。
「・・・そんなこんだで借金1億円をかぶることになったんです。どうにかなりませんかね・・」
「・・・ならんね。民事不介入だから」
そうだろうな。強盗とか騙されてならともかく、今回は母が同意している。浦川が街金から借金する。返せなければ代わりに弁済する連帯保証人に、母は直筆でサインし、実印も押している。仕方がない。どうしようもない。警察が云々いうことではない。
ならば、警察沙汰にすればいいのかと、私はエビス信販に殴り込んだ。というか、わけのわからぬ大声を上げてケンカを売り、殴られれば暴行事件で街金を悪者にできるのではと思ったが、海千山千のエビスの社長は顔色一つ変えなかった。
もちろん、今回の事件の真犯人である浦川清には直接、何度か詰め寄った。借金を返せ!と。1億円の金銭消費貸借書にもサインさせたが、その借用書のサインは浦川清史。実名は清なのに清史と書いて誤魔化す汚さ。こうして素人を騙してきたのだろう。
浦川は電話をすれば出てきた。逃げも隠れもしなかった。憎らしい。職場というか待機場所というか、ある会社へ電話すると、いれば浦川は電話に出て、指定場所へ現れた。
そして、「金は返す。今は金はないが、来月には金を返す」と毎回言う。逃げずに金を返す意志は表明する。しかし結局、最後まで一円の返済もなかったのだが・・・。
■潮時
こうして借金1億円を背負った。私は福岡での当面の処置が終わって東京に戻ったが、平川さんからは再三、福岡へ戻って欲しいとの電話があった。まあ、当然だろう。
「いや、東京で独立したばかりで、仕事がありますから・・・」
しかし、起業に失敗し、会社は実質休業状態で、出版社で週に三日バイトしているだけ。帰ろうと思えばいつでも帰れる気軽な身分。
実家は最大の危機だ。弟は兼松日産農林という、オンボロだが一部上場のキチンとした会社のサラリーマンで結婚もしている。ブラブラしているのは俺だけ。俺しかいない。帰るしかない。
「潮時」
そんな言葉が頭を過ぎった。
借金事件が発覚して3ヶ月後の1992年6月、私は東京を離れ、福岡へ帰ることを決めた。大学卒業以来、ビジネスマンとしての成功を夢に見て、ヤマハ発動機、リクルート人材センター、コンピューターシステムリース、ミッドと転職し、「無料職業相談業」アントロポスデータジャパンでの独立も失敗。まだ東京では何も成していない。
しかし、今回は帰るしかない。東京でも大阪でも負け犬人生。非常に心残りだが、今回の帰郷は誰がどう聞いても納得するだろう。撤退理由としては十分だ。
東京にはヤマハ時代に6カ月、リクルート時代に2年10カ月、失業+ミッド時代で2年半、独立後に1年半、都合7年ちょっといた。23歳で初めて上京し、途中2年半ほどは大阪だったが、33歳まで東京にいた。
20代から30代前半の、社会人として一番多感な時期を過ごした東京。多くの失敗を繰り返し、リクルート時代とミッド時代にホンの少しの成功体験があるが、全体では1勝9敗といった感じ。敗北者。青春の蹉跌。挫折。苦い思い出ばかり。
多くの恋もしたが、その多くは実らなかった。まじめな交際は2度あったが、その一つは大阪の婚約破棄事件で悲惨。もうひとつは最近まで続いていた元同級生の人妻。
後者の人妻にはかなり癒された。気が紛れた。サラリーマンとしてドツボで先が見えない時代、その後のダメ独立起業時代、寂しいときの心の拠り所だった。
「かっちゃんは何かを成す人よ」
お世辞でもうれしかったが、その片鱗はまったくなかった。
大学を卒業した時点では、少林寺拳法の関西大会で2年連続優勝するし、本も小説や経済・経営系を1000冊は読み、文武両道でこんなヤツはそういないと自信満々だった。が、社会に出てから立て続けに就職・転職に失敗し、起業もダメ。学歴も勉強も、何の役にも立たなかった。
しかも、まさか俺が人妻と不倫するとは・・・。
俺も堕ちた。仕事もダメだが、私生活も堕落している。なるようになれ。
人生に失敗し、単純に性欲に、快楽に溺れたのだ。同じ時期に、母も妻子ある獣と不倫していた。最悪の親子だ。
結果があれば原因がある。今回の1億連帯保証事件は起こるべくして起こったとも言える。父は高校2年の時に死んだが、高校卒業以来、俺は親のこと、母のことはほとんど考えなかった。考えるのは自分のことだけ。いかに自分の青春、恋、仕事、人生を成功させるか、そのことだけで精一杯だった。実家と母のことは捨てていた。忘れていた。眼中になかった。
結果として、母は独りだった。父が死んだのは44歳の時で、母は41歳。私はその1年半後に大学進学で家を離れ、小学6年生だった弟も大学卒業後は福岡を離れた。
幸か不幸か、母は働かなくても十二分に食っていける財産があった。しかし、俺が故郷を捨て、弟も巣立ったあと、実家に一人残った母には特にやるべきことがなかった。友人は多かったが、家に家族はいない。孤独で寂しかったと思う。
だいぶ以前に帰郷した時、母がポツリと漏らしたことがある。飼っていた小鳥が死んだときだ。
「チイちゃんがね、死んだときは泣いたんよ。やっぱ鳥でも寂しいね」
家に帰っても母一人。心の優しい弟はもちろん、喧嘩ばかりしていた俺でも、世話をする相手がいなくなるのは寂しいらしい。ご飯を作っても「美味しい!」という相手がいなければ料理のし甲斐はない。ケンカばかりでも、ケンカ相手がいるだけ幸せなのだ。
財産があっても寂しい一人暮らし。財産があるから働く必要がなく、だからこそ新たな知り合いも出来ず、そこに「浦川清史」に突け込まれるスキがあった。
「なんでこんなことになった!いつからのつきあいだ!」
懲らしめて白状した母によると、浦川とつきあい始めたのは7年前。1992年の7年前といえば1985年の昭和60年。この年は弟が大学を卒業して家を出た年。つまり、母が一人になった時期と同じだ。寂しかったのだろう。
現れた浦川は亡き夫と年の頃は同じで、一所懸命に作った「ご飯を美味しい、おいしいと言って食ってくれ」、「いろんな場所に旅行に連れていってくれた。夢のようだった」と母は白状した。実態は母を保証人にして街金から借りた金で遊び回り、返済することなしに栢野家に押しつけたのだが。
いずれにしろ、母に巡ってきた青春。遅れてきた青春。母にとって、愛する浦川の連帯保証人になるのは当然のことだったのだろう。
のちに、最悪の形でそのつけを払うことになるのだが。
■孤独な帰郷
1992年。世間はバブル崩壊していたが、オレの人生も崩壊した。
その6月、「青春」を共にしたリクルート人材センター時代のバイト仲間が、四谷の居酒屋で壮行会をしてくれた。その他、何人かの人に別れの挨拶をした。
四谷の木造風呂なしアパートの荷物は、ヤマト運輸の小さな軽トラック「独身引っ越しパック」一台に収まった。家を出た18歳から33歳まで、15年間の荷物にしてはあまりに少ない。人生で何も成していない証拠だった。
テレビドラマの「北の国から」で、東京に出たが失敗と挫折ばかりの「純」が寂しく帰郷するシーンがあったが、まさにそれと同じだった。
軽トラックが出たあと、私はヤマハのオフロードバイク・セロー220ccに跨り、陸路で博多を目指した。典型的な都落ち。これで東京ともおさらばだ。
が、俺は逃げるのではない。いかんともしがたい実家の理由があるのだと、正当な感傷に浸ろうとした。四谷から、最初に独立起業した新宿御苑、新宿通から青海街道を通り、東京で最初に間借りした阿佐ヶ谷のアパートに寄った。
そして環八通りを南に下って厚木街道を南に向かい、甘くて酸っぱい思い出のある相模大野のアパートに別れを告げ、国道一号線を西へ。ロングツーリングは学生時代以来だ。
しかし、神奈川県の秦野を越えて足柄あたりに来たとき、降り続いていた雨足が一段と強くなってバイクの視界を遮った。カッパの中まで水浸しになり、この先長い旅のことを考えると心細くなった。まさに泣きっ面にションベン。
暫し考えたあげく、バイクでの東京→博多横断を断念。東京湾からフェリーで行くことにした。
意外にすんなりと乗れたフェリーの三等船室で寝ころび、近くの出稼ぎみたい男たちと四方山話をした。
「こんなヤツラと話をしても仕方ない。どうせ人生の失敗組だ」
が、ほどなく、オレも同じと気づいた。
オレの人生はどこでどう狂ってしまったのか?