第七章 芽生え

投稿日:2008/10/28 更新日:

4社目:ベンチャー企業に入社

●大企業を諦める

東京に出て2ヶ月が過ぎた頃、元婚約者から手紙が来た。

「あなたを待とうと思ったが、やはりもう心が離れました。新しい人もできました。さようなら」

実はあんなサイテー事件の後も、彼女は「あなたが再起するのを待つ」と言ってくれていた。今回の破談は100%自分の責任。彼女に落ち度は全くない。彼女にとってはまさに青天の霹靂。結婚披露宴の1カ月前に社内恋愛の新郎がノイローゼで会社を辞めるとは。本当に俺は最低の男だ。捨てられて当然。彼女にとっては破談で良かったのだ。(風の噂で、今は幸せな人生らしい)

しかし、ともかく働かねばならない。3カ月が過ぎ、貯金も無くなってきたので就職活動を開始。株式上場しているセンサーのキーエンスは、まあ受かるはずはないと軽い気持で応募したが、意外にも一次試験、二次面接を通過。「おいおい、俺みたいな人間を採用しちゃダメだぜ」と心の中で心配したが、最終で落とされホッとした。

「惜しかったねえ。君はあと少しだった」と人事担当は言ったが、俺はもはや一流企業には最初から落とされて当たり前の滅茶苦茶な人生。でも、俺の経歴=まあまあの大学で有名企業系に在籍していたことを過大評価したのだろう。30歳ですでに3社を渡り歩き、次は4社目になるのだが、表面上の学歴と社歴の知名度は相手によっては効果があるのかと思った。「真実」を隠しての転職活動は心苦しかったが。

しかし、他の大手企業や大手関連会社にも応募したが、やはり、プロの人事担当の目は誤魔化せないのか、書類審査だけでことごとく落ちた。年齢のわりに転職歴が多く、どこも3年続いてない。勤務内容もヤマハとCSLは最悪だし、リクルートも少しは実績出したとはいえ、正社員試験に落ちている。そんな経歴に自分でも引け目を感じていたし、自信の無さが出ていたと思う。そして気づいたというか観念した。

「栢野、お前の経歴はもはやズタズタではないか。表向きは名のあるヤマハ発動機、リクルート、IBM子会社の履歴だが、お前はビジネスマンとしては最低じゃねえか。

リクルート時代はまあまあの実績だったが、正社員にはなれなかった。他の2社は両方とも仕事が出来ずにノイローゼ・ウツ退社。最低最悪の辞め方だ。

なあ栢野。もう一流企業とかその系統の会社へ転職するのは諦めよう。まぐれで入っても後で苦労するぜ。CSLみたいに」
こうして大手系は諦め、中小ベンチャー企業へ就職活動をシフト。最終的には求人誌で見た従業員25名くらいのチラシ宅配ベンチャー企業M社に採用された。

FC本部の中小企業へ転職

M社はチラシやDMなどの宣伝物を、主婦組織を使って宅配するFC本部。今でいうポスティング会社の親玉だが、当時、全国約25都道府県にFC加盟企業を構築。全国に約5万人の宅配レディを500世帯ごとに置し、全国約4000万世帯中、約2500万世帯にチラシ類を配布できるネットワークを築いていた。

FC加盟企業には東京コカコーラボトリング、加ト吉、プラント大手の日揮、九州産交運輸、長崎バスなど、意外にも各県で名の売れた名前が並んでいた。

また、栗林社長が書いた本「脅威のネットワーク・ビジネス」(マルチ商法ではない)や「営業管理職が読む本」がビジネス書としてはベストセラーになり、ベンチャー系や一部の広告業界ではちょっとした話題の会社だった。

栗林社長は元ミサワホームの営業本部長として、全国の地場企業と合弁でミサワホームの販売会社を設立。フランチャイズで全国販売網を築いた実績と経験を踏まえ、ニュービジネスに乗り出しているというふれこみだった。

出社日は12月1日。半年の失業者を経た初出社の日だったが、こともあろうに寝坊をして昼過ぎに出社した。いやはや最低の出だしで、もしかしたら採用取り消しになるかと思ったが、人事担当が「何をしている・・・」と一言苦虫を潰したように呟いただけで、粛々と入社手続きをした。

四谷3丁目にあったその会社は、今まで勤めたヤマハ発動機、リクルート人材センター、CSLとは明らかに雰囲気が違っていた。それまでの会社はすべて大企業かその系列。今回は典型的な中小企業。ビルはもちろん、オフィスの玄関から内部のインテリア、社員の人相と外観・・・なんというか、落ちたなあと思った。

先入観と偏見もあるのだろうが、すべてが見劣りする。ああ、俺は中小企業に来たな、堕ちたなと思った。同時に、ここなら俺の居場所もあるのではないか。俺のような汚れた経歴の人間が多そうな感じがした。

健康保険証を貰おうとすると、総務の女性が言った。3ヶ月経ってからだと。なぜだと聞くと、入社してもすぐに辞めるかもしれないでしょうと。試用期間もあるのだろうが、やはりこの会社は人の出入りが多いのだなと思った。
そして、一通り事務的な話が終わった後、その女性が小声で言った。

「社長がねえ、あんな男には惚れるなよ。女を不幸にするヤツだって言ってたけど、栢野さん、何かしたの?」。

「えー?何それ?・・なに冗談言ってるの?・・」と私は直感的に受け答えして、薄ら笑いを浮かべて聞き流しながらその場を去った。

「ばれている」

社長は俺の過去を知っている。興信所か自分で調べたかわからんが、俺が前の会社を滅茶苦茶な状態で辞めたのを知っていると思った。一瞬、ヤバイとは思ったが、そんな人間でも採用せざるを得ないほど、中小企業は人材不足なのだ。過去を知られたのは恥ずかしいが、こちらも嘘や隠すのは心苦しい。なるようになれ。

後で考えると、当時はまさにバブル経済の末期。個人の人生が最悪だったからか、好景気やその恩恵はまったく感じなかったが、なんとか就職でき、固定給をもらえるようになったのは幸運だったのだ。

仕事は対法人営業だった。新規事業を考える会社にM事業を提案し、FC加盟契約を結ぶ。M事業とは、チラシやDMなどの広告宣伝物を一般家庭や事業所に配るポスティング事業。全国主要都市で宅配エリアを決め、約500世帯ごとに宅配する主婦を1人設置して配る。当初は宣伝物の宅配だが、近い将来は全国に商品の流通網・販売網を構築して物販を行う。そのニュービジネスをFCとしてしませんかと。

日々、帝国データバンクや東京商工リサーチの企業名簿を元に電話をかけ、資料をFAXや郵送。FC説明会への参加勧誘を行った。我々下っ端の営業マンの仕事はそこまで。セミナー集客以降はベテラン営業マンがFC契約の営業を行った。

当時すでに全国4000万世帯中、約2500万世帯にポスティングする体制にはなっており、そこに流すチラシやDM配布の受注営業もやった。配布料金はチラシで一枚2,7円からだが、私は飛び込みで営業に行った日本勧業角丸証券の本社営業企画部から、全国で配るポケットティッシュDMの配布を受注。新人としては受注額が1000万円を超える大型受注となり、入社早々鼻高々だった。

自ら左遷を申し出る

しかし入社3カ月が過ぎた頃、このM社の事業に疑問を感じ始めた。FC加盟には1000万円以上の加盟金と毎月のロイヤルティが必要だったが、黒字になっていたFCは皆無に近かった。「このFCは詐欺かも」

現場のFCは日々マジメにチラシを配っているが、本部は口から出任せにFCを増やしているだけ。不信感が確信に変わったのは、幹部が元羽毛布団のマルチ商法に関わっていると知ってから。また、転職に失敗した。本当にオレはついてない。

その頃、神奈川県相模原のFCが撤退することに決定。次のFCが決まるまで本部が直営で現場を運営することになり、誰か行かないかということになった。期間は3カ月。

本部社員から見れば左遷人事のようなもの。が、私は手を挙げた。どうせこんな会社は辞める。しかし、FCの現場はマジメにチラシ配布作業を行っている。どうせなら現場を経験してから辞めよう。

案の定、他に希望者はなく、すんなりと私の異動が決まった。実はその頃、本部事務員との社内恋愛に破れたこともあり、本部を離れたかったのだ。まったく俺は懲りない男だ。

神奈川県相模原市。相模大野の駅裏にその事務所というか作業場はあった。清瀬の自宅からは遠すぎるので、私は相模大野の木造アパートに引っ越しをした。これで社会に出て6回目。毎年のごとく年賀状の住所が変わり、会社も変わっている。しかも、転職の度に会社の格も下がっていく。ダメ人間の証明をするようで、恥ずかしかった。

事務所には撤退するFCの人がいた。FCの親会社は平塚の米問屋で、本業の苦境を打開しようとM事業にFC参画したが、毎年赤字の垂れ流しで撤退することになった。

FCの所長は50代半ば。このあと親会社へ帰って閑職に飛ばされ、嘆いていたが、海運関係の資格をとって第2か第3の人生を歩もうとしていた。

在宅でチラシを配るレディ約200人の他、各レディを統括し、割り当てられたチラシを届ける主婦リーダーさんが15人。事務所の常駐は事務パートさん2名と私の3名で、この人員で相模原市約13万世帯をカバーすることになった。

クライアントは車ディーラー、薬屋、不動産、宅配ピザ、クリーニング屋、飲食店、塾、スーパーなど。仕事の大半はチラシ配りで、新聞折り込みが1部3円のところ、我々は2円70銭で配った。クライアントから印刷物を受け取って事務所内へ運び込み、エリア事の仕分け作業。それをエリアリーダーに渡し、各エリアのレディさんが毎週木曜、金曜で各家庭のポストに配る。これが一連の仕事の流れだった。

私の仕事は営業所長代理として、レディ全体の統括と顧客への営業。だけのはずだったが、思いもかけぬ重労働が待っていた。
赴任してすぐ、本部が決めたオフィスに移転することになった。家賃のコストダウンのためである。しかし、そのオフィスを訪れて愕然とした。以前は1階で約20畳だったが、今度はマンション2階の10畳。しかも1階から2階へのエレベーターがなかった。

ポスティングするチラシは、まずオフィスでエリアごとの仕訳作業をする。そのために受注したチラシを2階まで上げねばならない。紙のチラシは数枚程度はなんてことないが、まとまると重い。毎週では何十万部で数トンになる。

これをマンション1階から2階まで人力で運ぶのは相当な労働となった。かつ、マンション内でエリア毎に仕分けした後は、再びチラシの束を1階で待つリーダーさんの車まで人力で運ぶ。逞しい主婦の方が多かったとはいえ、女性が重い荷物を運ぶ作業を無視できない。レディさんとの人間関係を築くためにも、私は積極的にチラシ運びを率先した。

また、相模原市内のエリアは約200ヶ所あったが、毎回どこかのレディさんが休みになり、換わりに私や内勤の女性が配りに行った。1エリア500世帯にポスティングするのに2時間はかかる。1000世帯や2000世帯配ることもざらで、私は上半身ワイシャツにネクタイ、下半身はジーパンで、汗みどろになってチラシをマンション事務所に運び上げ、荒野の部分も多かった工業地帯の相模原の家にチラシを配布した。

当初は新しい職場に来た緊張感と新鮮さもあったが、すぐにまた落ち込んだ。

「俺はいったい何をやっているんだ。こんな場所でこんな肉体労働を」

世間的には名のある大学を出たのに、つぎつぎと転職に失敗。結婚にも失敗し、気づけば30歳を越えている。やっているのはチラシの運搬作業と配布作業。ここは首都圏とはいえ、東京都内からは2時間弱もかかる田舎。会社は無名の中小企業。さらに俺がいるのはその末端の代理店が撤退した後の、チラシだらけのワンルームマンション。

落ちたなあと思った。本当に俺は落ちた。落ちる所まで落ちた。人生の落伍者だ。毎日毎日、営業の合間やチラシ配布のあと、埃っぽい相模原の台地に沈む夕陽を見ながら、自分の人生の黄昏を感じた。なんで俺の人生はこんなことになったのだ。

しかし、当初3カ月だけの営業所運営の予定だったが、事務所を大幅にリストラしたことで、なんと黒字に転換。FCが見つかるまで継続営業することに。これは誤算だった。 当初は3カ月で辞めるつもりだったが、現場は一所懸命に頑張っている。近隣に接する町田の東京コカコーラのFCとも仲良くなり、立場上辞めにくい。

まあしかし、次にやることも思いつかない。そのまま、毎日単純作業を繰り返し、気づけば半年があっという間に過ぎた。

転職活動?を開始

このままでは茹でガエルになる。ダメになる。会社にも未来がない。会社の中で自分なりの生きがいとかやり甲斐とか、夢や目標を見いだせない。自分の能力不足もあるのだろう。が、とにかく、今のままではダメだ。もう32歳。既に4社目。どうするか。

幸い、この事務所には上司がいない。行動は好き勝手にできた。その点は自由で良かった。かつ、弱小事務所とはいえ、パートが大半とはいえ約200名のマネジメントする立場だ。まあ、実際はほったらかしというか、現場の主婦の方に自主的に動いてもらったが、今までにはなかった経験だ。

そんな時、同じ主婦組織で面白いタウン誌を発行・配布している会社があると聞いた。横浜本社の「ぱど」。社長は荏原製作所からの出向で、会社の新規事業として無料配布のタウン広告情報誌を発行していた。同じ広告系の主婦組織と言っても、こっちは単なるチラシ配りで、「ぱど」は個人広告+商業広告でしっかりとした自社媒体に仕上げている。

憧れの気持とあわよくば転職できないかとの想いもあり、社長の倉橋さんに思い切って電話して会社を尋ねた。オフィスにはパソコンがズラリと並び、20代の若者が熱気ムンムンで仕事をしていた。起業のヒントは、倉橋さんがアメリカで見た個人広告情報誌だというが、「ぱど」の電子出版プログラムは倉橋さんが自分で作成したという。何もかもがミッドとは比較にならない。素晴らしい。

倉橋さんから転職の打診も遠回しに受けたが、「ぱど」は20代中心の会社。30歳過ぎの自分が入っても追いつけないと思い、後ろ髪を引かれるように事務所をあとにした。

<その後「ぱど」は全国に展開し、発行部数は毎週約1200万部と世界一に。株式も公開して大成功をしている>

もう一社、東京に「ドゥハウス」という会社があった。こちらは主婦組織で、食品や家電などの大企業商品企画室などから、モニター・アンケート・市場調査を受注していた。私が会った創業者は小野さんという、学生運動のリーダーのような魅力的な雰囲気を持っっていた。その後に社長となる稲垣さんは、台所に飛び込んで主婦の日常を調査する泥臭さを持ちながら、高度なマーケティング理論をわかりやすく話す論客。

このドゥハウスにも憧れて転職も考えたが、やはり自分の能力や年齢を考えると、もはや太刀打ちできないと諦めた。

が、こんな感じで相模原から都内に行く機会が増え、セミナーや異業種交流会というものがあると知った。そこには様々な会社のサラリーマンや中小企業の経営者が参加していたが、私と同じように模索している人も多くいた。

自分の進む道がわからなかった私は、他の人はどうやっているのか、人生勉強のために参加した。そして、転職ではなく、「独立起業」という選択肢があることを知る。

★明日のために・その6/この「ぱど」「ドゥハウス」の社長とは、起業後に貴重な人脈となった。気になる人には思い切って会いに行こう。井の中の蛙にならぬよう、異業種セミナーにも出てみよう。

独立起業への芽生え

中でも熱心に通ったのは、脱サラコンサルタント「創業開発研究所」の小久保社長がやっていた「自分興し会社興しの会」。毎回、創業経営者をゲストに招き、独立起業のケーススタディを聞いた。

他には出版社「PHP研究所」のサラリーマンで中島孝志という人がやっている「キーマンネットワーク」などに参加した。
活動するうち、自分なりに独立起業のアイデアが浮かぶ。その一つはデータ情報誌の発行。当時、「オゥトゥジャパン」という企業内起業・新規事業のケーススタディ会員誌があった。社長は日野公造さんといい、私と同じリクルートの契約社員出身だった。

「創業」や「脱サラ」は小久保さん、「企業内新規事業」は日野さん。毎月毎週の日経新聞や日経産業新聞に、二人のコメントや記事がよく載っていた。創業や新規事業の情報を集めていた私にとって、この二人はカリスマだった。カッコ良かった。憧れた。

しかし、自分は文章も書けないし、講演も出来ない。やったことがない。ましてや本や雑誌を発行するなど無理だと思った。
他に気になったのは、広島本社の週刊「キウイ」という週刊誌。新聞の切り抜き情報誌の発行と、読者の異業種交流事業をやっていた。

自分も情報収集で様々な切り抜きを集めていたし、異業種交流会にもあちこち参加していたから、それで起業できれば最高だなと思った。でも、そんなのは無理だよなあと諦めた。

他には「データマン」。これは週刊誌のデータを集めたもの。自分自身が様々な新聞や週刊誌や本から脱サラや新規事業の情報を集めていたので、その手の必要性は感じていた。しかし、これも自分では今さら起業できない。経験も金もない。

独立起業研修への参加<?h5>

一体自分は何をしたいのか、できるのか。毎月毎週毎日考えたが、わからない。迷った末、創業開発研究所の小久保先生が2日間の「独立起業研修」をやると知り、3万円と当時の私には高額だったが、思い切って参加した。

参加者は私の他に50歳くらいの中堅企業サラリーマンが1名。計2名だったが結果としては小久保先生とのマンツーマンでラッキーだった。小久保先生は当時40代前半。脱サラの本も数冊出していた。

講義を受けた後、メインの作業である、「自分の過去を振り返るシート」の作成をした。それまで32年間の人生を振り還って長い履歴書を書き出し、改めて自分が得意なこと、できること、好きなこと、興味があることなど、思いつくままに書き出した。

結果、出てきたのは、「無料職業相談業」+人材紹介業。自分は就職・転職に次々失敗した。リクルートという就職と転職をビジネスにする会社にいたにも関わらず、自分の適職・天職が分からずに会社選びを失敗した。ならば、一般の人はもっとわからないのではないか。その手助けができないだろうかと。

就職や転職活動の際には求人情報誌を見るが、あれは情報誌とは言っても実態は企業にとって都合のいい広告誌なので、真実は書いていないことが多い。本来はその企業や業界や職種の厳しい現実も知り、果たして自分が合うかどうか判断せねばならない。

職業相談の場としては職安・ハローワークや民間人材銀行があるが、職安の担当者は所詮は公務員で、企業の実態まではわからない。民間人材銀行は、登録者の1割くらいの「売れる人材」しか相手にしないし、紹介する会社は、金がもらえる人材紹介契約を結んだ会社のみ。大事なのはお金をもらう企業で、真の意味で転職相談者側には立てない。

私はあくまでも転職相談者側に立ち、共に悩み、共に適性を考え、その相談者に成り代わって就職情報を探し、天職となる会社を見つける。人材を紹介して採用に至った会社からは、年収の3割から2割を人材紹介料としてもらいたいが、場合によっては紹介料がもらえなくてもいい。一番大事なのは、転職に悩む人を救うことだ。やればなんとかなるだろう。こうして私は、無料職業相談業・民間人材紹介業で独立することに決めた。

人材紹介業は本来、労働省の許認可とか数百万円の供託金が必要だったが、無許可でやっていた外資系のスカウト会社と同じく、表向きは人事コンサルティング料という名目でやることにした。

左遷された人の悲哀

相模原センターの後を継ぐFCも見つかった。協和広告というポーラ化粧品を主力クライアントとする中堅の広告代理店で、年商も100億円を超えていた。なんでこんな立派な会社がこんなFCに加盟したのか。ミッド本部がうまく騙したか。もしくは、協和広告がよほどアホなのか。

いずれにしろ、これで私は足かせが取れ、独立へ向けて自由になれる。仲良くなった現場の主婦たちに別れを告げて離れるのは寂しかったが。

協和広告から相模原の現場責任者として送り込まれたのは、いかにも気の弱そうな50代前半の男性だった。完全な左遷。東京都内のきれいなビルでの華やかなマスコミ広告から、こんな田舎の、同じ広告関係とはいえ、まさに場末のチラシ配りの子会社へ出向。生まれつきなのか、逆八の字の眉毛が悲壮感に拍車をかけ、私は可哀想にと同情した。

他に左遷で来たのは二人。一人は「なんで私が、こんな田舎のチラシ配りの会社に送り込まれるのよ!キー!」とでも言いたげな40歳前後の女性。おしゃれな服とブランドバッグが悲しかった。もう一人は65歳前後の定年間近か、定年後の第2の人生で気楽なモンさという感じの穏和な初老の男性。様々な人生があるのだ。

※協和広告は一時期年商175億円あったが、2002年に破産。

こうして事業の引継を終え、私は本社に辞表を出した。その際、人事から、部下はない「本社・営業係長」の名刺を提示され、社長からも引き留められたが、もはや私の頭は独立への期待と夢と不安で一杯だった。

その頃、M社はサンゴの健康食品や車の燃費倍増アイデア商品など昔ながらの詐欺悪徳商品の総代理店にもなり、全国のFC加盟店に流そうとしていた。まさに断末魔というか末期的症状で、会社には何の未練もなかった。

※この数年後にM社は破産した。が、加盟店は今も存続多数。素晴らしい。

-ルサンチマン

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