ランチェスター経営・竹田陽一「私の履歴書」

投稿日:2019/5/13 更新日:

「私の履歴書」by 竹田陽一 ※簡易版

私は小さい頃から勉強ができなかったので、学校がとても嫌いでした。母から、「陽一さん。たのむから勉強してちょうだい」と、しょっちゅう言われていたのを、今でも覚えています。私の時代には中学から高校への進学率は低く、比較的簡単に地元ナンバーワンの県立高校に進学できました。

しかし、勉強もスポーツも全くダメな私にとって、学校生活は決して楽しいものではありませんでした。まともなのは物理だけで、ほかは全部ダメ。中でも国語と英語は酷いものでした。私の高校では、年間の総合成績が一定レベル以下の者は、そのままでは進級できないので、2学期と3学期のあとの休みを利用して、特別の補習授業を受けねばなりませんでした。

これはビリの方から5%にあたり、私たちはこれを4学期と呼んでいました。これに全部出席すれば、努力賞として上の学年にあげてくれるのです。しかし、この授業では担当の教師から、さんざんバカにされて軽蔑されます。これがいやで、留年を承知の上補習を拒否する人もいたほどです。

私は3年間、休みの度に補習に駆り出されました。私は机の前に座ると、何か気になり落ち着かなくてそわそわするのです。ハエが一匹居ても気になり、殺してしまうまでは勉強にかかれません。ハエが片付くと、今度は蚊が気になります。次は裏の庭で野良猫や野良犬が騒ぎ始めますので、家から出ていってこれを追い払い、ようやく机に向かうと、今度は眠たくなるという始末です。

他には日曜大工のような工作が好きで、思いついたら勉強の途中でもあれこれと始めますから、成績が上がるはずがありません。

しかし、每年「4学期」まで授業を受けたかいがあって、こんな私でもメデタく高校を卒業できました。勉強はもう懲り懲りでしたから、卒業後は就職するつもりで地元のある銀行に内定していました。

ところが父が、「日本は学歴主義だから、どんな大学でもいいから進学した方がいい」と云うのです。そこで私はまず国立大学を受験することにしましたが、歯が立たずに1科目目で諦めました。

そこで、当時、受験してお金を払えば誰でも入れる私立大学へ入学。今ではその大学に入るのは難しいと聞くので驚きです。こうして大学に入ったものの、授業は全然おもしろくない。先生もやる気ない。一体、何の価値があるのかと毎日のように思い、一時は学校を辞めて就職しようかと考えたくらいです。

その上、私は字が下手で、文章もまったくデタラメでしたから、自分が書いたノートを見てもわけわからず、あきれ果てていました。大学を卒業して高校時代の国語の先生に街でばったり会いましたが、私の名前を即座に思い出してくれました。成績が良かったからではありません。「あなたほどひどい字と文章を書く人は今まで見たことないので、名前だけはよく覚えている」と。まさに保証書付きのヘタ字とダメ文章だったのです。

こんな私でしたから、大学の成績もまったくダメでした。優・良・可で優は1つもなく、これは後から調べてわかったのですが、経済学部400人中397番でした。

しかし、こんな私にも1つだけ特技がありました。物理が好きで、電気のオーディオに関しては知識がありました。高校入学時に買った「初歩のラジオ」という雑誌がきっかけで、鉱石ラジオを組み立てました。以来、ラジオに詳しくなり、ステレオの組立も自由自在でした。

大学時代にバイトしたお金は全部ラジオの組立に使い、押入れには部品が山のようにありました。

結婚した時には白黒テレビの部品を買ってきて1日で組み立て、何度も修理しながら10年間使いました。まったくの独学でテレビの組み立てができる腕前になれたのですから、自分もバカではないなと思ってました。

しかし、大学は出たものの、成績がひどかったので、有名企業の就職試験を受けようとしても、学校の就職課がOKを出してくれません。

結局、父のコネで北九州の中小建材販売に就職。ところが、経理に配属された私はまったく仕事ができませんでした。字は下手で漢字は知らないし、書くのは嘘字ばかり。経理の仕事は帳簿の記入と集計作業が中心なのに、ソロバンもまったくできず。1Pの集計を入れるのに、他人の10倍20倍時間がかかるのです。

同じ年に商業高校でた女子事務員はソロバンをぱちぱち入れる。この様子を見た上司の部長は「大学を出たのはいいが、君にはいったい何ができるのか?」と云われ、つくづく自分が嫌になりました。普通ならクビになっていたでしょう。

しかし、私はクビにならずにすみました。そのわけは、会計の名人であるH部長が大学の先輩であったことと、私より1級上の先輩が、仕事の面でも人物的にもすばらしい人だったからです。この2人の助けで、どうにか首がつながっていたのでした。

入社3ヶ月たった時、夜間の簿記学校の広告が目につき、行こうと思いました。しかし、入学に必要なお金はありません。上司に相談したところ、部長は社長に相談して費用は全額会社がもってくれることになりました。1年間の授業料は、当時の月給の2倍弱ですから大変な金額です。

仕事が終わって1年間通い、ソロバンの入れ方から簿記会計の原則や仕組みを教わりました。会計のことがわかるようになったのはその会社のおかげです。今でも大いに役だっています。

しかし、私は自分が会計係に向いてないことに気づきました。注意力が不足してるので振替伝票の記入をよく間違えます。そのたびに経理全体の仕事が遅れ、全員に迷惑をかけていました。

そこで私は販売係に転向することにしました。仕事は建設材料の販売です。営業の仕事は初めてでわからないことばかりでしたが、外に出て回れるのでこちらのほうがいいと思いました。

しばらくして、出張中に山陰の益田市にある書店で、「セールスに成功する秘訣」という本に出会ったのです。アメリカの生命保険の営業をしていたフランク・ベドガーが書いたこの本の内容は素晴らしいものでした。社会人となって初めて買ったビジネス書が一番いい本でしたから、私は運が良かったのです。

この本は今でも大事に持っています。あまりに何度も読み返したので、ボロボロになっています。ベドガーのもう一冊の本「私はどうして販売外交に成功したか」も買い、本に出会ったことで営業の仕事に張り合いを見出しました。

しかし、この会社には大変お世話になりながら、結局28歳の時にやめてしまいました。

それから2社転職しましたがうまくいかず、3ヶ月ほど失業することになり、2ヶ月間は失業保険で生活と、最悪状態に陥りました。

私は大学を卒業して1年後に結婚していて、このときすでに2人の子供がいましたから、生活にひどく困ったのは当然です。10キロ入りの米を買うお金がなく、紙袋を持って行き、米を2升とか分けてもらいましたし、新聞も断わりました。

子供が好きなビスコを買う30円もありませんでしたので、やむなく兄から借金して数ヶ月生活をしました。

この時ほど自分の人生に失望したことはありません。とにかく自分自身、今からどうしたらいいのか、まったくわからないのです。

新聞の求人欄を見るにも、新聞を買うお金がありませんから、駅の売店で新聞を見せてもらい、よさそうな会社があったらそれを買うという状態が1ヶ月ほど続きました。

あるとき、朝日新聞の夕刊に、東京本社で福岡支社の求人広告を見つけ、テストを受けました。東京商工興信所※という企業調査会社です。合格はしましたが、人生にすっかり失望して自信もなくしていたので、正直なところ、仕事がやれるかどうか不安でした。

そこで支社長に「仕事ができるか自信がありませんので、1ヶ月はアルバイトとして使ってもらえませんか?ダメでしたらいつでも辞めます」。その数ヵ月後に本採用になりましたが、これが29歳の時でした。

企業調査会社では、調査の仕事をしながら営業(調査チケットや企業年鑑)もすることになってました。私は3年足らずでしたが、前の会社で経験あったので営業はできそうな気がしていました。さらに、兄から生活費として借りたお金を返さねばならないし、必死でした。

当時は靴を買う金もないので履き古し、とうとう底に穴があきました。底から入ってくる小石をそのままにして歩くと、靴下はすぐに穴だらけになります。雨でも振れば「床下浸水」になって靴の中はびちゃびちゃ。こういう時に、靴を脱いで上がらねばならない会社を訪問したときは本当に嫌でした。

出先で昼食をとったあと、喫茶店でコーヒー飲むお金もないので、公園のベンチで休憩したり、ガードの下に新聞紙を広げて休んだことは再々でした。カバンは使い古しのボロボロ。着る物も2、3着しかなく、本当にみすぼらしい日々でした。※今の東京商工リサーチですが、当時は興信所でイメージが悪く、受ければ誰でも採用された?

◆朝7時半出勤を開始

このようなみじめな生活から1日でも早く脱したい。それまでの自分の人生に我慢できず、なんとかしたいともがいていた私、本採用になると朝7時半出勤を始めました。この会社は固定給7割+能率給で頑張ればそれにつれて収入が増加する。休日は1年間に5日だけで、残りは全部仕事に投入することに決めました。

入社して3年間は祝日もぼんも関係なく仕事したので、年間労働時間は4000時間を軽く上回ってました。さらに、片道1時間10分という通勤時間がどう考えてももったいないので、片道35分から40分で通勤できる場所に引っ越しました。これで1日あたり1時間多く仕事ができます。

どういうわけだか、企業調査会社の先輩社員たちは飛び込み営業を嫌ってました。社内ばかりか、200人ほどいた同業者にも一人もいませんでした。先輩社員の多くは、「保険屋でもあるまいし、そんな営業しても実績が上がるわけがない」。保険屋だろうが車屋だろうが企業調査屋だろうが、新しいお客を増やさない限り、売上が伸びないのは明らかです。

企業調査会社の売上は、小口分散型の取引でしたから、お客の数を多くしない限り売上は伸びません。そのためには飛び込み営業がどうしても必要でした。私はルートセールスながら3年ばかり営業経験あったし、フランクべドガーの本を読んで研究もしていたので、飛び込み営業をしてみたいと考えていたのです。

こうして、週に1回火曜日を営業日と決めて、1日30件を目標に飛び込み営業を始めました。なぜ火曜日か?火のように熱く燃えて実行しようということからです。

飛び込み営業を実行するに従い、売上は確実に上昇していきました。その会社の九州管内に同じ仕事をしている者が120人ばかりいましたが、3年を過ぎると並み居る先輩を抜いて1位になれました。

こうなると収入も増え、経済的にゆとりが出てきます。4年目に入る頃、115坪の土地だけ買い、のちに30坪の家を建てることができました。家を建てて仕事部屋を持つと、夜や休日にレポートを書くことができるようになったので、実績はさらに伸びていきました。

さらに「営業日」を火曜と金曜日の2日に増やしたところ、売上は着実に伸びました。このときはまさにガムシャラでした。

親戚との付き合いも学校時代の同級生も、町内会の付き合いも全部やめ、仕事1本に打ち込みました。

こうして入社5年目には千数百人いる会社で全国1位になれたのです。

しかし、精神的には決して安定したものとは言えませんでした。調査報告書を書くのは苦手ですし、嘘字や送り仮名のミスは相変わらず。体力的にも限界だったかもしれません。

今から思うと、よく倒れなかったものです。若さだったのでしょう。

◆ランチェスター法則との出会い

この当時、個人の売上は社内で1位だったものの、仕事のやり方は自分では納得していませんでした。

そんな時、新聞で見つけたあるセミナーに出席。講師は2人で、土曜の1時から5時。前半は電通のマーケティング部長が担当し、後半はランチェスター法則の田岡信夫先生が担当されました。参加者は80名くらい。

1人目は肩書きは良かったのですが、内容は全くダメ。3人に1人は寝てました。そればかりか一番後ろの席にいた主催者がいびきをかいて寝ていたのには驚きました。休憩でコーヒーが出たあと、次の田岡先生が話を始められました。時間は2時間と限られていましたが、このとき初めて、「ランチェスターの法則」と「弱者の戦略」を聞いたのです。

話の内容は素晴らしく、今まで寝ていた人も目をパッチリ開け、ぐっと真剣な態度になり2時間はあっという間でした。ちょうど35歳の時、手帳にこの時のことをはっきりと書いています。

ランチェスターの法則が、私の好きな電気の法則と同じで、いっぺんに気に入りました。さらに、私はその10ヶ月前から、お客サービスのひとつとして得意先の営業マンを対象に、「危ない会社の見分け方」セミナーを開いていたので、田岡先生の講演を聞きながら、「私も将来、このようなセミナーができる講師になれたら、どんなに素晴らしいだろう」と思ったものです。

セミナーが終わったあと、私は体に熱いものを感じて、居てもたってもいられず、講師の控え室に押しかけました。田岡先生はお茶を飲みながら一服されていましたが、快く面会に応じて下さいました。

「これを機会にランチェスター戦略を研究したいと思います。その記念として、田岡先生といっしょに写真を撮らせてください」とお願いし、これが自称「弟子入り」の始まりとなったのです。

◆「ランチェスター法則」によると、売上高は「販売戦術×訪問件数の二乗」で決まります。銀行の本店や商社など大口のお客をアタックするには、販売技術を高めなくてはいけません。

しかし、小口のお金を多くの会社からかき集めるような場合は、訪問件数の増加に力を入れたほうが手っ取り早いことがわかります。これは私が今までやっていた通りの結論でした。

では、具体的にどうすれば訪問件数をもっと多くすることができるかを考え、「自転車に乗る」ことにしたのです。当時はどこの会社も給料がぐんぐん上がり、みんな良い車に乗っていた時代で、自転車に乗るということは時代に逆行することでした。

しかし、当時の交通規制では自転車は歩道が走れず、車道を走ることになっていたので、交通事故の危険性が高く、自転車に乗って仕事をする人は極めて少なかったのです。福岡市内にいる同業者200人の中で、自転車営業は1人もいませんでした。そのため、私も随分悩みましたが、えいっと気合を入れて実行しました。同時に生命保険にもたっぷり入りました。

お客は事務所から半径2キロ以内に85%が分布していましたので、その2キロ圏内を重点地域にしたところ、訪問件数は車やバスで移動する人の3倍になりました。訪問件数が3倍になれば、販売技術の高い低いに関係なく、売上高は上昇します。そのため、私のチーム全員にも自転車を使ってもらったところ、チームの実績はグングン伸びました。

私は会社年鑑を好んで売ってました。これは九州地区内の会社の経営内容の概略を載せた分厚い本です。1冊の重さは6キロあります。これを毎年200冊ばかり売ってましたが、社内ではナンバーワンでした。私のチームだけで支店2つ分くらいは軽く売るのです。これは各人の腕が上達したわけでも、頭が良くなったわけでもありません。訪問件数が増えただけなのです。

会社を辞めるときに計算してみると、のべで12トン販売してました。私はランチェスター法則を戦術面で応用して成功しましたし、私のチームの者もこれを実践して大きな実績を上げました。

そのため、収入が格段に増加して、高額所得者並みの給料がもらえるようになれましたから、経済的にもゆとりがでてきました。

「不幸や問題には、それと同じくらいかそれ以上の良いことが隠されている。もし、その問題に対して、積極的に取り組むならば、きっとその良いことを手に入れることができる」という法則は正しかったのです。

経済的に最悪の事態に陥ってから6年後には、経済的な心配は完全に解決していました。

◆「危ない会社の見分け方」の本を出す

田岡先生との出会いがあって以来、先生の事務所に電話を入れて、先生が福岡に来られる予定をうかがうことにしました。そして、先生の有料セミナーが福岡で開かれるときは可能な限り出席して、一番前に座って聴くことにしたのです。

もちろん、この時の費用も個人負担です。私のお客で熱心な社長には声をかけて、いつも2人から3人でいっしょに参加するようにしました。半年ばかりしているうちに先生から声をかけられ、いっしょに食事ができるようになりました。

こうして年に何度かお目にかかっていたんですが、田岡先生の話を何度も、しかも無料で詳しく聴く方法はないかと考えたのです。そこで営業先の社長に「社内研修で田岡先生を呼ばれる予定がありましたら、私がお世話します」と、田岡先生を売り込んで回りました。こうして7ヶ所ほど社内セミナーのお世話をし、田岡先生の話を7回も無料で聴くことができたのです。

こんなことが何年か続いて、田岡先生とすっかり親しくなった頃、先生から「君も本を書いてみないか」とすすめられました。

私はその頃、企業調査会社で倒産会社を取材し、それを記事にする仕事をしていました。倒産会社の調査は人から好かれる仕事ではなかったので、本気で取り組む人は少なかったようです。

私は自転車に乗って倒産会社を取材したり、倒産会社の決算書を分析するなどの研究を熱心にし、この研究をもとにしてテキストを作り、「中小企業の信用調査と危ない会社の見分け方」セミナーをすでに200回ほどしていました。

そのため、頑張れば私にも本が書けるのではないかと、密かな自信を持っていたのです。それまでは休日も1日仕事をしていましたが、これをやめて、本の原稿書きに切り替えました。

しかし、字はヘタで嘘字が多く、加えて文章も全くダメときているので、ずいぶんと苦しみましたが、半年ばかりでどうにか原稿が出来上がりました。

こうして田岡先生の紹介で、東京の出版社から本を出版することができたのです。田岡先生のセミナーに出てからちょうど3年後、38歳の時でした。

ところが、これで私は会社をクビになりかけたのです。東京のある部長はすでに2冊の本を出しているのに、私にはダメだというのです。納得できるものではありませんでしたが、これはサラリーマン社会でよくあることですから、仕方ありません。始末書を書きながら、このときほどとめどなく悔し涙が出たことはありません。

しかし、どうしようもない悔し涙を流したことは、私にとって大いにプラスになりました。当時、私は平均社員の7,7倍の売上を上げていて、給料は同じ年代の人から見ると、2,5倍から3倍もありましたから、待遇はなんの不満もなかったし、仕事も面白かったのです。

しかし、この事件があって以来、社内での人間関係が悪くなり、悩みも多くなって、一時は仕事が手につかない状態がつづきました。その結果、私は「この会社は定年までいる会社ではない。早めに辞めて、自分の思う通りの仕事をする必要がある。でないと、自分の人生そのものがダメになる」と考えました。

前にも説明した通り、私の人生は学生時代を含めて30歳までは最低の状態でした。であるのに、その後の人生を「ご無理ごもっともでございます」と、「定年まで頭を下げ続け、腰を低くした生活をするなど、とてもできるものではない。

これでは生きている甲斐がない」と思ったのです。

◆5ヵ年の独立計画を立てる

しかし、思いつきで暴発的に会社を辞めて独立しても、自分自身が危ない会社になるに決まっています。

事実、倒産会社を取材していて、社長や上司とけんかになり、カーっとなって暴発的に会社を辞めて独立し、経営を始めたものの1年目の決算も迎えないままに倒産してしまったという人を、何人も見ていました。

そこでじっくり考えた結果、会社には申し訳ないが、給料をもらいながら独立の研究をさせてもらうということに方針を変えたのです。

それとともに、人生のプランを立て直すことにしました。まず、B4の方眼紙をタテに置き、1センチ5ミリずつ線を引きました。そして、現在から将来に向かって、自分の年齢と子供の年齢を書き込んでいったのです。

このグラフを書いてみて、私は大きなショックを受けました。それは自分の人生が、わずかB4の方眼紙1枚に納まってしまったからです。人生は長いように思えますが、表にするといかに短いものであるかがよくわかります。

この表は今でも自宅の仕事部屋の壁に貼っています。

会社を辞めて自分で事業をすることに対しては、自信がなく不安でした。そこで、なぜ不安なのか、不安要因をすべて紙に書き出し、検討してみたのです。

その第1の原因は、経済的な不安でした。前にも説明したとおり、私は28歳の時に失業して、米代や子供のお菓子代にも困ったことがありましたので、まず貯金計画を立てました。5年から6年分の生活費を目標金額にして、毎年いくら貯金しなければならないかについて、書き込んで行きました。

第2の原因は、自分一人でやっていくだけの裏付けがないことでした。私は田岡先生の講演を聞いたあと、将来は講演活動家と経営コンサルタントになりたいと考えてました。しかし、講演を本業とするからには、私独自の講演テーマの開発が必要になります。

どんな会社でも競争力のある商品を持ってないといい経営ができないのと同じく、競争力のある講演テーマをいくつか持っておかないと、そうやすやすと成功するものではありません。それまでの講演は、もっぱら「危ない会社の見分け方」が中心でした。

しかし、危ない会社の見分け方の商品だけでは講演回数が限られ、そのうちマーケットが一巡し。危ないのは自分の方になってしまうのは目に見えています。

東京や大阪であれば市場が大きく、しかも全国を回れますから、良い商品を開発すれば一つのテーマだけで5年や10年間は十分やっていけます。

しかし、地方では市場が狭いためにそうはいかず、最低でも3つの講演テーマを持っていないと、1年に250回以上の講演をすることはできないのです。

当初は43歳で独立するという5ヵ年計画を立てました。35歳の時に田岡先生の講演を聴いて以来、「ランチェスター法則」を財務戦略と販売戦術へ応用することについては、すでに研究に取り掛かっていたので、これをもとに本格的な商品開発に取り組みました。

それまで、休日は会社の仕事ばかりをしていた私ですが、それをすべて講演用の商品開発に切り替えたのです。また、自転車に乗って長時間営業すると疲れて、休日の研究開発にも差し支えますから、あまり無理をしないようにしました。

しかし、商品開発はうまく進みません。これでいいのではないかとテキストを作っても、実際に講演で使ってみるとうまくいかないのです。しかも、3つのテーマを開発するのですから、大変に骨が折れました。

こういうわけで独立の予定を2年伸ばしました。その間、経営戦略に関する本やスライド、カセットテープを買うなど、多くの資金を投入して研究につとめました。独立までの7年間に買って読んだ本は、本箱にして3箱分にもなりました。

その他に素晴らしい内容の本があれば、自分に必要なところだけを編集し直して、これをアナウンサーに朗読してもらい、自分専用のテープをつくることもしました。これには多くの費用がかかりましたが、同じものを何十回と聞けるので十分元は取れます。会社を辞めるまでに、自分専用のテープが10冊分くらいできました。

この独立準備中、信用調査の進め方と危ない会社の見分け方以外に、どうにか講演用として3つの商品が完成しました。

次はお客づくりです。幸い私は、自転車を使っての飛び込み営業で多くの会社を回るとともに、調査の仕事で中小企業の社長と知り合いになっていたので、営業上の心配はあまりありませんでした。

事務所に使うためのマンションも、独立の半年ほど前に適当なものが見つかり、買いました。

こうして丸16年間お世話になった会社をやめ、1983年6月1日に独立。独立パーティには田岡先生ご夫妻を含め250人の参加を得ました。

◆独立後は直ちに軌道に乗る

独立後はどうなったか?1年目は30分という短いのも入れると、304回の講演をすることができました。次の年は301回、その次の年は295回となり、3年間で平均300回になりました。

5月の連休と8月及び12月は講演依頼が平常の4分の1以下に落ち込みますので1年間に300回以上の講演をするには、月に35回、1日3回の講演をする日が何日かは必要になります。

それができたのは、独立までに1000回以上の講演をしていたことと、仕事を通じて中小企業の多くの社長に人脈を作っていたからです。

独立の時は、人間関係が深い1000枚の名刺を残して、ほかは一応整理しました。この1000人の方々の紹介の力で、独立から5年間で和歌山県を除く全国を回ることができました。

この時ほど人脈のありがたさを感じたことはありません。その後は1回あたりの研修時間が長くなったり、1泊2日というのも多くなりましたから、講演の回数そのものは少なくなりましたが、売上のほうは毎年増加し、結果は予想以上でした。

ところが、独立して1年半ばかり経った頃、田岡先生が亡くなられたのです。大きなショックでした。私は独立する前、「ランチェスター戦略をフランチャイズのような形で指導していただき、私がうまくいったならば、希望者を全国から募集したらどうですか?」というプランを田岡先生に持ちかけ、私がその第一号になっていたからです。

しかし、このプランは実現しないまま終わりました。私は独立たものの、ランチェスター法則の理論的な部分はまだほんの一部分しか知り得ていませんでした。

そこで原点から研究するためにイギリスへ行き、ランチェスター先生の墓参りをすることにしました。私は英語がまったくできないし、ランチェスター先生に関する情報もゼロ同然でしたが、とにかく現地へ行ってみようと決心して、1985年12月9日、初めてイギリスを訪れました。

私は幸運に恵まれ、ランチェスター先生の一番下の弟さんの未亡人と面会することができました。私と通訳と妻の3人はお宅に一晩泊めてもらい、その奥さんの紹介でランチェスター先生の資料のありかを知ることができました。

さらにその2年後、再びイギリスを訪ねた時には、ランチェスター先生の著作物をすべて納めたマイクロフィルムを初めとして、多くの資料を手に入れることができました。

そして帰国後、直ちに翻訳作業にとりかかりました。それとともにランチェスター法則の経営戦略への応用をテーマにした研究に一段と力を入れました。

そのあと私は休業し、「ランチェスター中小企業の成功戦略」というテーマでテープ作りに取り組み始めました。いざ原稿を書いてみると大変な作業でした。

書いては捨て、捨てては書くという状態を繰り返し、4年と3ヶ月の歳月をかけ、のべ50数時間のテープがようやく完成しました。書き潰した原稿を積み上げると、私の身長の2倍半ぐらいになったのです。

朝7時から毎日10時間、4年も原稿を書き続けることは実に大変なことでしたが、いわゆる時間戦略の実行でどうにか完成したのです。

仕事を進めていると、必ず困難や不幸な出来事に出逢います。その時、消極的に対処したならば、数年後には必ず「あのときはこうしておけば良かった、ああしておけばよかった」と、それらに対してとらわれの身になってしまいます。

そうではなく、積極的に対処していると、それと同じかそれ以上の良いことが必ず起きるのです。

先にも説明したように、学生時代にめちゃくちゃな成績であったことは、その後の私の人生に大いにプラスになりました。学生時代ダメだったから、35歳を過ぎて勉強しようという決心ができたのです。

28歳の時、子供に30円のビスコも買ってやれないほど経済的に追い込まれたことで、30歳から大いに働いて当面の生活には心配ない貯金をすることもできました。

そして、自腹を切ってランチェスターセミナーへ出席したことで素晴らしい先生と出会えました。

また、長時間労働を実践し、社内で売上ナンバーワンになれたことで、時間戦略の着想が生まれ、教材も完成できたのです。

人が嫌がる倒産会社の取材と研究に取り組んだことで、経営戦略に対して自分独自の考えが持てるようになりました。

さらに、38歳の時に本を出したことで会社をクビになりかかり、くやし涙を流したことで独立の決心がつきました。

ランチェスター戦略の大家であった田岡先生が亡くなられたことは大変残念でしたが、それがきっかけになってランチェスター先生の墓参りを決心し、ランチェスター先生の何冊もの著作物と研究資料を手に入れることができました。

「不幸や困難には、それと同じくらいかそれ以上の良いことが必ず隠されている」という法則に間違いはなかったのです。

しかし、マイナスをプラスに変えるには積極的で熱意に満ちた精神的エネルギーと、大量の時間エネルギーの2つが不可欠です。この2つがあって初めてマイナスがプラスに変わるのです。

あなたがどんな境遇にあり、今から先の人生をどのようにしたいのか、私にはわかりません。

しかし、あなたが仕事や人生に対して、何か大きな目標を持っているのであれば、この時間戦略の応用に積極的に取り組んでいただきたいと思います。

「学生時代の成績は思わしくなく、仕事についてからも良いところを1つも作りえず、これといった実績は何もない。それだけでなく、経済的にも恵まれていない。このような人生に我慢できない。なんとかしたい」と思っている人は、直ちにこの時間戦略の実行にとりかかってください。

やってみればわかります。必ず何らかの変化が起き始めます。その時点では必ずしも自分のためにならなくても、長い人生で見れば必ずお返しがあります。

長時間労働は、世の中の常識からすると一番バカげた、一番つまらないやり方です。しかし、休日の7割を「仕事の研究日」とし、これと合わせて「必勝型」の3200時間以上を15年間実行するなら、自分でも気がつかない潜在能力が開発されることになるのです。

潜在能力が開発されるということは、質が高まることを意味します。質が高まればアウトプットは加速的に増加して、それまで思いもよらなかったことができるようになります。

こうなると不利な人生を逆転できて、運命も変わるのです。やっているときは損のように思えたことが、あとで何倍にも何十倍にもなって返ってきます。時間戦略を実行するかしないか、これを最終的に決めるのは、あなた自身なのです。

成功を祈ります。

※1994年4月22日 竹田陽一56才

ランチェスター経営(株)代表。1938年10月生まれ。唐津生まれだが、福岡県久留米市出身。福岡大学経済学部を卒業後、建材メーカーに入社。 経理を3年、営業を3年経験したあと、秤の会社と住宅営業に転職するもうまくいかず失業状態に。失業保険ももらい、さらに兄からの借金生活。人生に失望し、どうすればいいか全くわからなくなる。追い込まれ、28歳のときに人から嫌われる企業調査会社に転職。 中小企業の信用調査と、倒産会社の取材を担当。営業面では入社3年で九州地区1位、5年で全国1位になる。ランチェスター法則との出会いは35歳の時、福岡駅前で開かれたセミナーに参加してから。 以来、経営戦略の研究に取り組むとともに、経営を構成する8大要因の1つひとつに、ランチェスター法則の応用を始める。44歳の時、独立してランチェスター経営を創業。 講演で全国を回り、合計4300回にのぼる。F・ランチェスター先生の墓参りにイギリスまで行き、原書を手に入れて翻訳。これまでに渡英計7回。趣味は物理と音楽。著書に、『小さな会社★社長のルール』『なぜ、「会社の数字」は達成されないのか?』『「ランチェスター経営」がわかる本』
『THE LANCHESTERSTRATEGY FOR MANAGEMENT』(以上、すべてフォレスト出版)、『社長のためのランチェスター式学習法』(あさ出版)など、多数。詳しくはアマゾンで検索。サイトも「竹田陽一」で検索。

※現在81歳ですが、ドラッカー95歳まで現役を見習い、今も元気に新教材やYouTubeにもチャレンジ中

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