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あざっす!増刷28刷15万部へ

あざっす!ロングセラー22年目で計28刷。たぶん15万部は超えたか?韓国台湾翻訳やKindleも含めれば。当初はゴーストライターの話だったが、ダメ元で共著のお願いFAXすると5分後に「あーイイよ。栢野さんが書くんだから、あなたの本として。私は監修で小さく名前が出ればイイよ。最後に教材紹介のページ入れて頂戴w」まぁ宝くじが当たったようなもん。狂ったね。勘違いして。この数年は文学系直木賞目指したが、小説=創作作り話のセンスはゼロと判明。森永卓郎のような陰謀論でも書くかw。8月は大阪で久々に講演。詳細やAmaz ...

大阪セミナー+懇親会20240804

栢野克己さん講演会(ゲスト中小企業診断士マキノヤ先生)@大阪 大阪市中央区本町1丁目4−5 | By 学んで、実行して、人脈を広げよう!交流会@大阪 カテゴリー ベンチャー/スタートアップスタートアップ起業中小企業自営業 イベント詳細 ビジネス出版計8冊、売上総数27万部(アジア翻訳含む)、 またFacebookなど有名でいらっしゃる、 弱者の戦略・ランチェスター戦略の第一人者、 そして破天荒武闘派!?の 栢野克己(かやのかつみ)さんを大阪にお招き致します。 https://yumesenkan.jp/ ...

衝撃の結末「サイゴンから来た妻と娘」近藤紘一

衝撃の結末◾️羽田の記者クラブにいた時、サイゴン支局の近藤紘一から「家族が行くのでよろしく」と連絡があった。「サイゴンから来た妻と娘」はその日の夕刻、羽田に着いたが、彼女らはもうすぐ消滅する南ベトナムの旅券を持っているだけで、日本の入国ビザはなかった。近藤との結婚証明書もなく、入管を説得して2人を仮上陸させるのにずいぶん苦労した。そんなこともあって帰国してからの近藤とあれこれ話をするようになった。サイゴンで結婚した妻ナウのことも結構詳しく話してくれた。どこかに書いていたように、ナウはベトナム人の夫がいて、 ...

小さな会社向けセミナー③

小さな会社向けセミナー②

小さな会社向け3日連続セミナー①

兵庫の青年会議所でセミナー講師

昨夜は兵庫県の龍野青年会議所で「小さな会社の稼ぐ技術」成功事例のウラ話100連発!参加者のノリが良く、私も最初から調子に乗って脱線しまくり。でも本も全部売れた。あざっす!動画は以下コメ欄に。 たつの市人口7万人だが、日本一の揖保乃糸やランドセルのセイバン、ヒガシマル醤油の本社も。以下商工会議所のサイトより ◾️ 龍野には醤油・素麺・皮革と伝統的な三大地場産業があります。 醤 油 龍野の醤油の起源は1587年。龍野が発祥の地である淡口醤油は、色が薄く煮た食材に色が付かないため、精進料理や茶懐石料理に最適とさ ...

インドの路上火葬場に来て見た

以下2枚目の写真に足が。インドの路上火葬場ガンジス川のワーラナーシー202306月

インドの路上火葬場ガンジス川ベナレスへ

インドは貧しい。平均月収2万円は東南アジア以下。でも世界一の人口14億人ステイハングリーパワー凄い。仏教のブッダやイギリス首相の他、Google、Adobe、Microsoft、IBMのCEOもインド人。頭はイイし英語ペラペラで安い労働力は中国を軽く超える。アメリカも抜いて2050年GDP世界一あり得る。首都ニューデリーと路上火葬場バラナシ4-5日程度歩いただけだが。インド人優秀説は検索で沢山

バンコクのスラムへ潜入

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成功の近道はパクリ!守破離!

「考えるな。パクるんだ」by ブルースリー栢野
■WinはMac、スタバはイタリア珈琲、リクルート社は米キャリア誌、日本はほぼ全部欧米のパクリ。中国も欧米日本TTPで大発展!

■成功への近道は「パクリ!?」そんなの卑怯だ!ズルい!とバカにして、最近まで我流オリジナル正義でやろうとしてた凡人のオレが馬鹿だった!天才ジョブズもエジソンも、ユニクロもセブンイレブンもチキンラーメンも先人を素直に学んで真似てパクって守破離大成功。子供は親や先生や友達のマネ環境で育つ。良くも悪くも恐ろしい。ひねくれモンホリエモンも「あなたの居場所はここじゃないと、久留米付設への転校を強く勧めた小学校の先生に感謝している」。「いいんだよ。置かれた場所で咲きなさい」が大半だが、現状に満足できないなら引っ越しや転職や起業や新規事業や廃業や転業や結婚や離婚や再婚や不倫東出だ。話が逸れたが、この世の動物と人間は親や先輩他のマネ守破離だ。遺伝子レベルも含め。自分オリジナル突然変異もあるが、大半は身内ふくめ先人をマネて学んで育つ成長する。基本の型を学ばず真似ず、最初から我流オリジナルで成功した経営者やスポーツ選手アーティストはいない。村上春樹レベルでも、最初は10代からハマってた欧米作家の文体文章をマネて英語で書いて邦訳したものが群像新人賞に。パクリじゃなくても強く影響を受けた先人はいる。中卒ボクシングから独学で建築家の安藤忠雄は最初からオリジナルかもだが。つぼ八をパクったワタミ。ワタミをパクった魚民も、先発の沖縄「目利きの銀次」を完全パクって商標も取って本州で同名チェーン展開しまくってるパクリの殿堂モンテローザは1000億と大成功!パナソニック松下電器もマネシタ電器で超絶成功。ドラッカーは「創造的模倣戦略」、ランチェスターでは「ミート戦略」と50年前から提唱。NLP心理系では「モデリング」。そんなカッコつけた言葉じゃわからん。ストレートに「パクリ戦略」と言わんか!下品だから言えんのよねw 武道等では「守破離」=まずは基本の型を「守」。次に自分の個性を活かした応用の「破」に。最後は自分オリジナル商品の「離」へ。大量生産大量販売系は似たもの同士になるが、逆の「手づくりめんどくさいダサい®️」小ロットやオーダーメイド、オリジナルの商品やサービスは人の手による職人芸なものが多く、極めると、他にない差別化独自化オンリーワンな存在になる。だから顧客の感動も呼ぶ。「プロフェッショナル仕事の流儀」出演者も職人や零細企業ばかり。そこは小さな会社お店個人職人系の得意分野。※機械で大量生産は似た物同じものばかりだが、「手づくりめんどくさいダサい®️」は先人先輩と同じ作業しても個人のクセや個性が出るから必ず守破離その人オリジナルに昇華する。で、

安藤忠雄Wiki■ 大阪府大阪市港区生まれ、同市旭区出身。三人兄弟で弟が2人いる。双子の弟は、北山創造研究所(都市コンサルタント業/商品デザイン業)を主宰する北山孝雄。下の弟は建築家の北山孝二郎(ピーター・アイゼンマンとのコラボレーションで名を馳せた)。一人娘だった母親の実家・安藤家を継ぐため、生前からの約束に従い祖父母の安藤彦一・キクエの養子となる。大阪の下町にある間口2間、奥行き8間の長屋で育つ。

大阪府立城東工業高等学校卒業。月給1万円の時代に、4回戦のファイトマネーが4千円という報酬に魅せられ、在学中の17歳でプロボクサーのライセンスを取得し、フェザー級でデビュー。以後、10試合ほどしている。しかし、所属ジムに来ていたファイティング原田の練習を見て、身体能力の桁が違うと感じ、1年半ほどでボクシングからは引退する[2]。

また、過去にはプロボクサーでもあった(リングネームは「グレート安藤」)。高校2年の時にライセンスを取得し[3][4] 6回戦まで行ったが[5][6]、ファイティング原田の練習風景を見て、その才能に圧倒され、ボクサーとしてやっていくのを諦めた[7]。

もともと、中学生の頃、自宅の建て替えを担当した大工や、中学時代の数学教師からの影響で、建築に興味を持っていたため[2]、卒業後、前衛美術を志向する具体美術協会に興味を持つ。

経済上の理由で大学には通えなかったため建築の専門教育は受けておらず、毎日15時間以上独学し、建築科の学生が通常4年かけて学ぶ内容を1年で習得して建築士試験に1発で合格した[8]。また、水谷頴介の建築設計事務所でのアルバイトもしていた。

木工家具の製作で得た資金を手に、24歳の時から4年間アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアへ放浪の旅に出る。ヨーロッパからの帰路、マルセイユで数週間待たされた後、帰国の船に乗り、象牙海岸、ケープタウン、マダガスカルに立ち寄り、インド・ムンバイ(当時のボンベイ)で下船する。安藤は“何かに導かれるように”汽車に乗り、ベナレスに向かった。ガンジス川で牛が泳ぎ、死者が荼毘に付される傍らで多くの人々が沐浴するさまや、強烈な太陽の下、異様な臭気に包まれた果てしなく続く大地、生と死が渾然一体となり人間の生がむき出しにされた混沌世界に強烈な印象を受け、逃げ出したい気持ちを必死にこらえながらガンジス川の岸辺に座り込み、「生きることはどういうことか」を自問し続けた。「人生というものは所詮どちらに転んでも大した違いはない。ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいいのだ。闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。その時は、自然に淘汰されるに任せよう」と考え、ゲリラとしての生き方を決心する。1965年、24歳のときである。この放浪中に安藤が撮影した写真は、ルイス・I・カーンの作品集などで使われている。

1977年のローズガーデン(神戸市生田区)等初期の作品のいくつかは、弟の孝雄の所属していた、セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める浜野商品研究所(1992年、浜野総合研究所と改名)と共に実現した。

1970年代には個人住宅などの小規模建築、1980年代には商業施設、寺院・教会などの中小規模の建築の設計が多かった。1990年代以降は、公共建築、美術館建築、海外の仕事も増えている。

1941年9月13日 - 大阪府大阪市港区に生まれる。
1965年 - この年より4年間、2度にわたり世界を放浪。キューバの革命家チェ・ゲバラに傾倒し[9]、ガンジス川の河岸でゲリラ的生き方を決意。
1969年 - 安藤忠雄建築研究所を大阪に設立し、個人住宅を多く手がける。
1976年 - 「住吉の長屋」(大阪市住吉区)が高く評価され、1979年に日本建築学会賞を受賞した。以降、コンクリート打ち放しと幾何学的なフォルムによる独自の表現を確立し、世界的な評価を得る。

■人物・エピソード 編集

野武士世代と伝えられている(建築家槇文彦が命名。)。
阪神タイガースファンである。
安藤に保護され、事務所で飼っていた迷子の子犬を、ル・コルビュジエに肖り、コルと名付けた。
東大教授時代の助手は建築家千葉学である。
水都大阪2009総合アドバイザー
過保護に育てられているとして「1980年以降に生まれた人たちはダメだ」と大学の講演などで発言し、気概があるのは高齢者ばかりで今の若者はダメ、高齢者が亡くなったあと日本は相当困ると指摘している[16]。
事務所は自分のデザインした建築であるが、本人は一般のマンションに住んでいる[17]。
梅田スカイビルを建築した積水ハウスは2013年6月17日に、安藤の発案で、同ビル内に高さ9メートル、長さ78メートルに亘って約50種の草木を植樹する内容の「緑の壁」計画を発表した[18]。ビル緑化の取り組みの一つとされていたが、同日にビルの庭園の設計を担当した造園家の吉村元男が、当該計画は庭園のデザインの統一性を損ね、かつ著作権を侵害しているとして、同月19日に同社に対し、工事中止を求める仮処分を大阪地裁に申請した[19]。
2009年に胆のうがん十二指腸癌のため、胆のう胆管十二指腸を摘出[20]。
2014年7月にすい臓がんが発見され、膵臓と脾臓を全て摘出する手術を受けたことを明らかにしている[21]。

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