モスバーガー創業者は愛人宅で急死とは知らんかった。しかも相手は元オリンピック選手タレント。昔、自伝読んで感動したな。「日興証券で日大じゃ出世できない」と起業。この学歴コンプレックスはバネになる。雑穀米のベストアメニティ内田社長も第一生命辞めて起業。お金ないモスはマクドの日本進出で勇気を得て、アメリカ西海岸の手作りハンバーガー「トミーズ」をパクり守破離。マックの逆で差別化。お金があるロッテリアは大量生産方式のマックを忠実にパクり続けて48年。常にマクドの影響受けて赤字。後発弱者はまず差別化。先発大手と逆をやる。商品・地域・客層で。でも先発セブンほぼパクリのローソンファミマもそこそこ充分大成功してるな。エラそーな経営理論もよく調べると、たぶん半分は外れてるw
■桜田慧は実にキザな男である。
※1991年日経ビジネス
「お客様に心から奉仕すれば、お金は自然に入ってくる。追いかけて無理につかみ取ろうとしてはいけない。モスバーガーチェーンの最大のフィロソフィーは感謝の気持ち。共有すべき唯一の価値観は愛だ」
軽くウエーブがかかった見事な白髪。眼鏡の奥の目を輝かせて、客への愛、ともに働く者への愛をよどみなく語る。「フィロソフィー」「シェイクハンド」「ハッピー」--。それらしい横文字のキーワードを交えた話ぶりは、いやみではあるが、聞く者を陶酔させる不思議な力がある。
桜田は自らが信じる飲食業の理想を語り、その信奉者を増やすことで事業を拡大してきた。他人の資金や労働力を活用できるフランチャイズチェーン(FC)システムのメリットを桜田ほど有効に生かしきった経営者は珍しい。
今年1991年3月末時点のモスバーガーチェーンの店舗数は1015店。うちモスフードサービス(以下、モスフード)の直営店は50店にすぎない。全体の95%に当たる965店は、桜田の理念に共鳴してチェーンに参加したFC加盟店(フランチャイジー)だ。
FCオーナーも心酔する「桜田教」
挫折繰り返し、同志愛が源
桜田のカリスマ性を背景にしたFC本部(フランチャイザー)とフランチャイジーの同志的結合。桜田の実践してきた経営がしばしば「モス教」「桜田教」と評されるゆえんである。
モスバーガーチェーンの1991年3月期の総売上高は790億円でハンバーガー業界2位。フランチャイジーに食材を供給するフランチャイザー、モスフード本体の業績も、売上高404億円、経常利益50億円の規模に達している。
「お店全体が善意に満ちあふれ、だれに接しても、親切で優しく明るくほがらかで、キビキビした行動、清潔な店と人柄…」。朝、開店を前にしたモスバーガーの店の奥からは、ひときわ元気な声が聞こえてくる。桜田が示した「モス・ポリシー」なる行動規範を店長、店員が全員で唱和する声だ。桜田の経営理念に心酔して店を開いた者にとって、このモス・ポリシーは商売の大切な「教典」と位置づけられる。
こうした例からもわかるように、フランチャイジーが桜田に寄せる信頼は絶大だ。しかし、ここに至る道のりは平たんではなかった。本人は「職を転々として苦労を重ねるうちに、ビジネスの本質が見えるようになった」と言い、また、桜田をよく知る周囲の人間は「モス創業までの彼の人生は挫折の繰り返し。『今に見てろ』という気持ちが精神的パワーの源になった」(モスフード元幹部)と分析する。
「銀行よサヨウナラ、証券よコンニチハ」。こんなキャッチフレーズがもてはやされていた60年、日本大学経済学部を卒業した桜田は、「銀行へ行け」という所属ゼミの教授の言葉を振り切って、日興証券に入社した。早稲田、慶応などの出身者に交じって、日大から日興証券入りしたのは桜田一人。東京・浅草支店に配属され営業マンとして第一歩を踏み出した時から、「おれは日大代表だ」との思いを胸に、がむしゃらに頑張った。
同期入社の日興証券副社長、副島忠雄(慶応大学卒)は「約300人の同期入社組の中で、彼の営業成績は際立っていた。私は最初の配属先だった長崎支店で『同期にすごいヤツがいる』といううわさをたびたび耳にした」と新人時代を振り返る。
62年、そんな桜田に一度目の転機が訪れた。海外派遣社員資格試験に合格し、ロサンゼルス支店への転属が決まった。米国は子供のころからあこがれの地。現地に赴いた桜田は、夢にまで見た米国の文化を貪欲に吸収し始めた。ハンバーガー事業への進出の際、桜田が最初の手本とした手作りハンバーガー店「トミーズ」に足繁く通ったのも、ロス駐在当時のことだった。
しかし、米国での充実した日々はそう長くは続かなかった。64年、折からの証券不況で経営が悪化した日興証券は国際部門の縮小を計画、桜田は本店外国部に呼び戻された。これに不満を募らせた桜田は65年7月、日興証券を退社。浅草の皮革問屋、ヒサゴヤに転職した。同社は日興証券時代の桜田の顧客。「米国に支店を出そうと思っている。海外戦略の責任者として腕を振るってくれないか」と誘われた。
この転職に大きな希望を抱いた桜田は、同じ外国部にいた後輩の渡辺和男を1年後にこの皮革問屋に招き、続いて、元日興証券社員の吉野祥を仲間に引き入れた。吉野とはヒサゴヤに入社後、共通の知人を介して知り合った。
しかし、3人が新天地で与えられた仕事は、入社前の期待とはおよそかけ離れたものだった。ヒサゴヤの台所は、海外進出どころか、従来の国内事業だけで火の車だった。
懸命に立て直し策を練ったが、結局、事態を打開できず、まず吉野、渡辺の2人が70年5月に退社した。3人で新しい事業を始めるしかないという意思はこの時点で固まった。
桜田は立場上すぐ辞めるわけにいかず、しばらくヒサゴヤに残ったが、2人が退社した翌月には独立に向けての受け皿として株式会社モスを設立した。モス(MOS)の名称はマーチャンダイジング・オーガナイジング・システムの頭文字をとってつけた。
不眠不休で1号店を切り盛り
髪真っ白、ぎっくり腰に涙
それ以降、有望な商売の種を必死に探し始めた桜田に光明が差したのは、71年7月のことだった。マクドナルドの日本上陸である。銀座にオープンした日本マクドナルド1号店の盛況ぶりを見ながら、桜田はロス時代に知ったハンバーガーの味を改めて思い出した。「ハンバーガーでいこう」。桜田は2人にこう言い放った。
ハンバーガーの事業は、それまでの経験から、新たに手がけるビジネスにいくつかの条件を設定していた桜田の考えにもぴったり合った。その条件とは、粗利益率が高いこと、現金商売であること、初期投資が小さくFC展開が可能なことなどである。
72年3月、東京・成増駅前のショッピングセンターの地下に、モスバーガーの実験店を出店。ハンバーガー事業に本腰を入れて取り組みだしたころには、桜田もヒサゴヤの経営から完全に手を引き、3人のリーダー役に専念するようになっていた。成増商店街の八百屋の倉庫を改造した直営1号店を同年6月に開設し、翌月にはモスをモスフードサービスと改称。社長として指揮を振るう体制を整えた。
「ハンバーガーの将来性には絶対の自信を持っていた」とはいうものの、商売を軌道に乗せるまでの苦労は並大抵ではなかった。創業間もない時期は、桜田自身、1日3時間の睡眠で、毎日午前7時から午後11時まで1号店の切り盛りにあたり、まさに身を削るような思いを味わった。
桜田の髪が白くなり、日興証券時代、89キロあった体重が61キロまで減ったのはこのころ。72年秋にはついにぎっくり腰で倒れ、さすがの桜田も病床で涙をこぼした。「あの時は本当につらかった。『日興に戻って来いよ』というかつての同僚の誘いに乗ってしまおうかと思ったこともあった。しかし、吉野、渡辺のことを考えると自分だけ楽になるわけにはいかなかった」。当時の心境をこう述懐する。
自らの身の処し方が、同時に、少なくとも2人の男の人生を左右する。そんな状況に置かれたことで、桜田の精神力は否応なく鍛えられた。桜田評を聞かれると、渡辺が即座に「人の2倍も3倍も責任感の強い人」と答えるのは、当時の桜田の姿が脳裏に強く焼き付いているからだ。事業の先行きに何とかメドが立ったのは73年3月に日大構内に出した2号店が繁盛し、1号店も軌道に乗ってからだった。
事業の拡大過程で、桜田が他人の人生を預かる形になったのは、創業仲間にとどまらなかった。フランチャイジーも皆、桜田の語るモスバーガーの未来にすべてを託した。モスフードが本格的にFC加盟店の募集を開始したのは73年。同年11月、名古屋市新瑞(あらたま)にオープンしたFC1号店のオーナー、小林敏美は言う。
「店を出したばかりのころの生活は今振り返ると、まさに壮絶そのもの。かみさんと朝7時から翌朝の3時まで店番をした。売り上げは平日で1万円、休日でも1万5000円ほど。利益はほとんど出ない。ラーメン1杯で1日を過ごすことも珍しくなかった。それでも本部の人たちはもっと頑張っているんだと思って働いた」
FCが増えるにつれ、小林のケースと同様のドラマが全国で展開された。すべてのドラマをハッピーエンドに導く、大きな責任を負った桜田はまず経営思想を末端にまで浸透させ、チェーンの結束を維持していくことに全力を傾けた。こうした理念先行の経営手法に対する同業者の見方は、「チェーン拡大のためには当然のやり方だった」という点で一致する。
「国産のチェーンがしっかりした店舗管理システムを確立するまでには、相当の時間がかかる。その過程では、創業者の哲学をベースにした精神的結束が不可欠だ。我々も桜田さんと同様のことをやってきた」。すかいらーく会長の横川端はこう語り、西洋フードシステムズ社長の和田繁明も「外食事業は店舗があちこちに点在する小集団分散型事業。これを束ねなければならない経営者には、必然的に強烈なパワーが求められる」と話す。
二等地への出店と和風味付け
マクドナルドの逆を行く日本化
もっとも、桜田自身は、モスバーガーチェーンを指して「桜田教」「モス教」と言われることを決して快く思っていない。「モスの経営は心プラス科学だ」と強調する。桜田の言う「科学」とは、路地裏の二等地への出店、和風の味付けを重視した商品開発など、モスバーガーが実践してきた独自のマーケティング戦略のことだ。大ヒット商品となった「テリヤキバーガー」「ライスバーガー」は、その和風を基本にした商品開発から生まれた。
モスバーガーチェーンの全国展開にあたり桜田は、米国流のハンバーガー事業をいかに日本化するかを最大のテーマに据えた。ヒト、モノ、カネ、経営資源のどれひとつをとってみても、マクドナルドに勝るものはない。それならいっそマクドナルドの手法を逆手に取ろうというわけである。
マクドナルドが駅前の一等地に大きな店を出すなら、モスは商店街のはずれに小さな店を出そう、作り置き商品の素早い提供をセールスポイントにするなら、こちらは注文を受けてからの手作りをアピールしよう--。こんな発想で具体的な戦略を詰めた。最終目標にしたのは、八百屋、魚屋など、日本のごく普通の街にある繁盛店の良さを最大限に取り入れることだった。
マーケティングだけでなくFCシステムの運用でも日本化にこだわった。店舗の設計、オペレーションなどのある程度をフランチャイジーの裁量に任せ、本部が徴収するロイヤルティーの率も低く抑えた。モスバーガーの場合、フランチャイジーから本部が集めるロイヤルティーは売り上げの1%。モスフード本体は、ロイヤルティーよりフランチャイジーへの食材供給で利益を確保している。
店で提供するサービスの質低下を最も恐れた桜田は、特に立ち上がりの10年間、フランチャイジーの選抜に細心の注意を払った。その桜田が本格的なチェーン網拡大に走りだしたのは83年からだ。
きっかけは、同年12月の吉野(当時専務)の急死だった。店舗を巡回して経営指導を行うスーパーバイザー業務など、フランチャイジーと日常的に接触する実務で、吉野は中心的な役割を演じてきた。それだけに桜田の受けたショックは大きかった。
「彼の死は、仕事で無理を重ねた上での『戦死』。亡くなった後、3カ月は何も手につかなかったが、気を取り直して彼の穴をどう埋めたらいいのかを考えた。何より組織の整備など企業基盤を固めることが大事だと判断、株式公開を決意した」と桜田は語る。その目標に向かっての拡大路線である。このころにはFC加盟を希望する店の数は大幅に増え、質を落とさずにチェーン網の急拡大が可能になっていた。
83年8月時点で200だった店舗数が、85年6月には300に。吉野の弔い合戦となった株式公開(店頭登録)は85年11月に実現した。さらに、88年3月には東証2部上場を達成。
企業基盤がひとまず固まったのを見届けて、桜田は昨年6月、会長に退いた。今後は「社長の渡辺を後方からサポートしながら、ラーメン、牛どん、カレーライスといった新業態の開発、国際戦略の立案などに取り組みたい」と話す。会長就任で雑務から解放され、好きなゴルフを楽しみ、週末は昨年建てた熱海の別荘で過ごす時間的ゆとりもできた。
独自のダンディズムは貫く
早くも「第2の人生」に思い
桜田が希有な才能に恵まれた起業家であることは間違いない。会長に退いた今、外食産業関係者はその才能が次に向かう先を注意深く見守っている。「1000店のチェーンをコントロールする手腕を今度は是非、業界のために発揮してほしい」(すかいらーく・横川)との声も急速に高まっている。
しかし、こうした期待に桜田は「業界活動には積極的に協力するが、団体のトップの役職に就くつもりはない」と話す。「公の場でスポットライトを浴びるのは、桜田流のダンディズムにそぐわない」とでも言いたげだ。
最近は「会長からも早く身を引きたい」と早期引退をほのめかす言葉も聞かれる。桜田が最後まで会社にしがみつく従来のオーナー経営者とは異なる道を模索しつつあるのは確か。だが、一方で外食業界の草分けの一人として「事業意欲は全く衰えていない」とも語る。21世紀へ向け、その胸中にあるものが具体化するまでには、もう少し時間がかかりそうだ。
■愛人の元水泳オリンピック選手木原美智子宅で急死の記事は以下コメント欄