第二章 軌跡

投稿日:2008/10/28 更新日:

高度成長~バブル~崩壊の軌跡。1960~1992
ここから、生まれ~帰郷までの人生を振り返る

■私は昭和33年に福岡で生まれた。ずっとあとで知ったが、子供時代の1960年代はまさに日本の高度成長期。先日、映画「三丁目の夕日」を観たが、まさにあの昭和の時代だった。
 生まれたときからテレビがあり、大学へ出て社会に出るまで生活に不自由したことはない。逆に、贅沢をした覚えもないが、あとから考えると、私は充分、坊ちゃん育ちだった。 生まれつきの天然パーマだったからか、小学校時代は「リボンの騎士」(当時流行っていた漫画)と呼ばれ、女の子とよく遊んでいた。親を「パパ、ママ」と呼ぶ、いつも笑顔のニコちゃん。

そんな私が、親への憎悪を抱いたのは、いつのことだろうか。
                                 
「金属バット殺人事件」

あなたはこの事件を知っているだろうか?

あれは私が大学生だった昭和55年に起きた。予備校生だった当時20歳の予備校生「一柳展也」が、就寝中の両親の頭を、金属バットで殴って殺した。父親の頭蓋骨はパックリ割れて血しぶきが天井にまで達し、母親も脳漿があたり一面に飛び散っていたという。

展也の父親は当時46歳。学歴は東京大学卒で、一部上場の旭硝子(株)東京支店長。母親は山口県の名門酒造家の娘で、兄も早稲田大学を卒業して大手電機メーカーに就職という、絵に描いたようなエリート一家だった。展也以外は。

展也も父や兄と同じく、一流大学を目指すが、早稲田、上智、中央、明治学院、成城と全部に不合格。浪人したが、またも早稲田、立教、明治、法政、日大に落ちる。

父から「一体おまえは何を目標に勉強をやっているんだ!どうしようもないヤツだ。こんな調子じゃダメだ。もういい。大学行くだけが人生じゃない。就職しろ!」と父から云われたが、兄と母が必死に説得して二浪を許される。

予備校を変えたが、早稲田専科コースでの成績は、英語が111人中80番、国語は最下位だった。展也は予備校をサボるようになり、父親のカードから金を盗んでは映画や喫茶店やパチンコで遊んだ。

母親に「オレは自衛隊に入る」とか「相撲取りになる」とも云ったが、また予備校通いをするようになった11月、早稲田模擬試験の結果は偏差値43。絶望的な結果だった。

11月29日の犯行前日、帰宅した父親は、展也が自分のキャッシュカードを盗んだことを知り、きつく叱った。さらに、受験浪人している展也に小言を云おうと、2階の部屋に入ると、展也はウイスキーをラッパ飲みしていた。「バカが!一人前に大学にも入れないくせに、このざまは何だ!おまえはクズだ!家を出て行け!」と、展也が座っていた椅子を足蹴にした。

それまで、展也の見方だった母親も、「あなたはダメな子」と言い放つ。

その3時間後、犯行は起こった。

(参考:「無限回廊」予備校生金属バット殺人事件より
                  
◆   ◆   ◆

この事件が起きた当時、私は大学生活を謳歌していて、失恋以外の悩みはなかった。が、何かが心に引っかかった。年齢も近く、親に対する似た想いを抱いたことがあったからか、はたまた、事件の数年後に作家・藤原新也のベストセラー「東京漂流」で一柳展也のことを読んだからか、その後の人生でたまにノスタルジックに思い出すことがあった。

裏口入学

父が銀行とやらに勤めていることを知ったのは、小学校4年の時。生まれ育った福岡市から、山口県下関市に引っ越した時。父が福岡相互銀行の下関支店長として赴任したのだ。家は丸山町の高台にある、豪華な一戸建ての支店長社宅だった。

ある日、私は何かの理由で遅刻しそうになり、父を毎日送り迎えしていた車のおじさんが、文関小学校まで送ってくれた。始業ギリギリの時間で、校門や校庭には誰もいない。

が、校門で高級車から降ろしてもらうと、校舎の窓から大勢の友達が私の方を見ていた。恥ずかしかったが、何か誇らしくて気分がいい。以来、私はたびたび、わざと遅刻しそうになり、父を銀行まで送り、車庫で車の手入れをしているおじさんに送ってもらった。

下関は2年で、その後はまた福岡市西新の銀行アパート社宅へ戻った。そこには小学校5年と6年を過ごしたが、事ある事に父に叱られ殴られ、私はアパートの物置に泣きながら逃げ込んだ。理由は覚えていない。怖いのは地震・雷・火事・親父の時代。が、友達と比べても、あきらかにオレは怒られる頻度が多い。オレはダメな子なのかと思っていた。

■中学は校区内にあった、進学校の福岡県立百道中学へ。成績は350人中100番くらい。その頃、社宅アパートを出て一戸建てに引っ越した。どうやら、父が栄転したらしい。
 ある時、父の給与明細を偶然見たが、月給で30数万円とあった。昭和46年だから、今の価値では月給200万位か。あとで知ったが、父は39歳で銀行の最年少取締役に就任。下関時代と同じく、毎日、黒塗りの役員車が家に出迎えていた。

高校受験を控え、親の計らいで中学の教員がバイトでやっていた塾に通った。校区の一番の進学高校は修猷館。当時も今も、毎年数十人の東大進学者を出す、名門公立高校だ。
 しかし、私の成績では到底無理。校区で2番目の城南高校を受験する事になったが、そこもかなり難しい。自分なりに必死で勉強しようとしたが、私はラジオから流れる南沙織や天地真理、洋楽のベストテン番組に夢中になった。特に南沙織が好きになり、月刊「明星」や「平凡」の切り抜きを集めまくっていた。

■当落ギリギリの成績で迎えた城南高校の受験日。午前中の試験が終わって休憩時間になった時、試験監督が2~3人、私の机に寄ってきた。「君が栢野君か・・」。なんでオレの名前を知っているのか?しかし、特に疑問を持つことはなく、午後の試験を受けたが、あきらかに失敗した。落ちたと思った。

ところが合格発表日、奇跡的に合格した。百道中学からも多くの友人が受けていたが、私を含め、中の上くらいの成績のものは、ほぼ全員不合格。馬場、入江、土井、山崎・・・・皆、首をうなだれて下を向いている。その姿を横目に見ながら、同じく合格した飯山の手を取り、「やった!やった!」と喜んだ。飯山は落ちた皆に気を使い、困ったような苦笑いをしていたが、私はお構いなしにはしゃぎまくった。本性が出たのだ。

その時、近くにいた入江が呟いた。

「おまえが受かって、なんでオレが落ちるんだ」

 オレの成績は入江より少し良かったから、お前に云われる筋合いはない。それに、お前は汚い中華料理屋の息子じゃないか。住む世界が違うんだよ。
 私は聞こえないふりをして、心の中で「ザマアミロ!」と喝采を上げ、落ちたヤツラを見下して冷笑した。あれは生まれて始めて、自分の非情さに気づいた瞬間かも知れない。

また、中学時代に大好きだった中村恵子という、施設から通っていた同級生がいたが、彼女は池田という成績優秀なヤツに惚れていた。その修猷館合格間違いなしの池田が、まさかの不合格と聞いたときも、心の底から快感が湧き上がった。

■しかし城南高校に入学後、最初の試験の結果には愕然とした。成績が350人中、200番台だったのだ。それまでの小学・中学で、平均より下になったことはなかった。悪いときでも、いつも真ん中よりは上だった。人間の価値は成績で決まると思っていたので、もの凄い劣等感に襲われた。

が、次の試験も、そのまた次ぎの試験でも、結果は学年の平均を下回った。オレはダメな人間なのか・・・・。次第に高校に行くのが嫌になり、同級生や先生から「このバカが。劣等生が・・」という眼で見られている気がした。

ある日、オレは「いつものごとく」、両親の寝室外にかけてある、父の背広のポケットに手を入れていた。そこにはいつも小銭があり、たまに盗んでいたのだ。何やら父と母が話している。

「・・・・まあ、こうして入れば、克己も何とかなるだろう・・・・」

前後の言葉は聞こえなかったが、その瞬間、私はあることを思い出した。城南高校の受験時に、「君が栢野君か・・」と机に集まった試験監督の言動。あの不可解な、何やらバカにしたような笑みと、寝室の父の言葉が結びついたのだ。

「裏口入学?」

その勘は数ヶ月後、実証されることになる。

■高校1年の夏、父が取締役小倉支店長で転勤することになり、私も転校することになった。校区で一番は福岡県立小倉高校だったが、そこは修猷館と並ぶほどの進学校で、到底私の実力では無理。次は小倉西高校だったが、当時の成績は悪く、合格できるかどうかわからない。その下の小倉南高校は確実と思ったが、一か八か小倉西高校を受験することになった。

果たして受験の前日、まだ引っ越しの段ボールで溢れる中、「家庭教師」という男が家に来た。心配で親が呼んだのだろう。私は、男から渡された数学の問題をやったが、そのペラ一枚が終わると、解答用紙を渡してすぐに帰った。少し疑問に思ったが、翌日の試験問題を見て驚いた。

試験科目は国語、英語、数学だったが、なんと数学は、昨日やった家庭教師の問題とほぼ同じ。比較的得意だった暗記英語もなぜか簡単なレベルでほぼ満点の出来。苦手な国語は70点くらいの感触だったが、合計では300満点中、少なくとも250点は取れたと思う。

予想通り合格したが、クラス担任の若狭先生は私の転校試験の成績表を見ながら、「これはスゴイ生徒が入ってきた」と、私の前で呟いた。「そんなの当たり前ですよ。だって、数学は家庭予習の問題と同じなんですから・・・」とは言えない。子供心に、これは悪いことをしていることはわかった。

が、先生にはもちろん、親に聴くのも憚れ、友人にも言えない。転校してきたばかりで、知り合いは誰もいなかった。

「オレと両親は、限りなく、犯罪に近いことをやっている」

■疑いが確信に変わったのは、小倉西高校に転校してまもなく。数学の時間になり、入ってきた白い制服の中年男性を見て、「アッ!」と声が出そうになった。転校試験前日に家に来た「家庭教師」だったのだ。

「そういうことか」。

先生の名前は江上と言った。噂ではイン金タムシだったようで、頻繁に机の端に局部を押しつけ、掻いていた。

担任の、英語の若狭先生をはじめ、他の先生は「不正入試」のことはまったく知らなかったようで、事実は私の両親と江上教諭、江上教諭を紹介したであろう人物の、ごくわずかしか知らないはずだ。そして、当事者の一人である私。

この数年後、高校か大学時代かは忘れたが、新聞で同じ様な事件を何回か見た。大人になって知ったが、公務員相手に金品の授受で不正な取引をすることは、立派な贈収賄事件だ。新聞記事を見て、オレもいつかは逮捕されるのでは?と怯えた。

同時に、これはなんと48歳になって気づいたことだが、「犯罪」を犯した親への憎しみの芽も、この頃から生まれていたと思う。さらに、そんな不正に身を委ねるしかなかった「共犯者」としての自分への苛立ち。
 これがのちの、社会人になって出逢う様々な不正に対する、特にずる賢い強者に対するルサンチマン的な復讐心、破滅的な正義感の萌芽になったと思う。

その原点が「犯罪者の親」であること。尊敬すべき、感謝すべき対象を、憎まねばならなかった状況。これは望んでも得られない、貴重な経験だ。相手が大手だろうが有名人だろうが、お世話になった先輩や会社でも、お客でも容赦しない。間違っていることも多いかもだが、相手が誰であろうが、ウソや不正や騙しは許さない。これはなんとも貴重な資質だ。・・・そう思えるようになったのも、2007年になってからだが・・。

■こうして福岡県立小倉西高校へ裏口入学した私だが、この高校は居心地が良かった。というのは、入学は不正だったが、成績がまた昔のように、300人中で100番以内に戻ったから。平均すると50番全後だったか。
 この小倉西高校は、以前の、同じく不正入学した福岡県立城南高校に比べると学業では劣る。今もそうだが、現役で早稲田や慶応、九州大学へも合格する生徒はほとんどいない。よって、私の成績でも、上中下で言えば、学年で常に「上」だった。が、それは学業で二流高校だったからで、偏差値自体は60を上回ることはほとんどなかった。55位か。その成績では、いわゆる一流大学には程遠い。

私は恋愛と音楽に夢中になった。とくにアグネスチャンには惚れ込み、部屋中にアグネスのポスターや切り抜きを貼りまくり、ファンクラブにも入った。勉強するふりしてオールナイトニッポンや歌謡曲番組に夢中になり、歌手やスターに憧れた。

また、クラスの一つ年上の不良・中嶋が女の子とイチャイチャしているのに刺激を受け、高校2年の夏、クラスの女の子を見渡し、松原まり子に焦点を定めた。特に話したこともなかったが、なんかアイドル風で好みにあった。
 ちょうどその前の試験成績がよく、何かの科目は学年で10番以内に入り、その表が全学年に配られ、体育のクラスでも目立っていた。

今がチャンスと思い、つき合って欲しい旨のラブレターを書いて靴箱に入れると、まさかのOKが出て舞い上がった。が、「つき合う」ことの意味を知らず、OKの返事はもらったのだが、どうすればいいのかわからない。今考えても素晴らしいプラトニックラブだ。デートの場所は小倉玉屋や小倉城を歩いたり、図書館で一緒に勉強する程度。

菅生の滝で、初めて手を繋いだが、もうそれだけで息子は勃起状態。きついジーパンに締め付けられた状態が何時間も続いたからか、腹が痛くなって困った。草むらに寝そべり、キスのタイミングも計ったが・・・そんなことをするのは不良だと、キスなんかは結婚してからだと思いとどまった。まさに青春!?

そんな姿を父は察していたのだろう。オレをいつも見下していた。

「金属バット殺人事件」一柳展也の父のように。

エリートの父

父はエリートだった。昭和6年生まれ。大半が中卒か高卒の昭和24年、「商科の雄」神戸大学経営学部に入学。卒業後は当時の花形である大日本製糖に入社。その後福岡相互銀行(今の西日本シティ銀行)に転職し、30代で取締役になっていた。当時は小倉支店長を兼務で、これはあとで知ったが、この小倉支店は福岡県北部の本部も兼ねた、役員への登竜門だった。

(これは35歳を過ぎて知ったが、父の父、オレの祖父は、福岡相互銀行の前身である「福岡無尽」創業期のメンバーであり、やはり取締役検査部長をやっていた。オレが小学校低学年の頃に亡くなったので、詳しくは知らなかった)

そんな家系だったからだろう。オヤジとしては、オレは修猷館か小倉高校→東大や早稲田慶応、腐っても九大を期待していたが、到底無理な話。その努力もせず、女とデートしてアグネスチャンの日々。

ある日オレが部屋にいるとき、オヤジがスッとオレの部屋を開けた。そしてアグネスチャンだらけの部屋を見渡し、軽蔑するような目でオレを見た。

「なんね!?閉めろよ!」

そういうと、オヤジは無言で去った。既に身長ではオヤジを越し、気性も荒くなっていた。昔は何かというとオヤジはオレを殴ったが、もう手出しは出来ない。別に腕力は強くなかったが、キレた時の狂気は、かなり凶器じみていたからだ。

■時は1975年、昭和50年の夏。俯瞰的に見れば高度成長期のまっただ中だったが、オイルショックの後の不況時でもあり、銀行役職者の立場としては激務が続いていたようだ。さらに、オヤジは高血圧で糖尿。さらに痛風で足も引きづって歩いていた。母が野菜ジュースや青汁を家で手作りし、必死に家庭療法をしていたのはよく覚えている。

当時、父は44歳。激務だったが脂の乗りきった世代で、銀行の中でももっとも出世コースに乗っていた。業界の代表として、銀行業界のヨーロッパ視察団一員にも社から選ばれ、まさに順風満帆のビジネスマン生活だった。「家庭の長男問題」を除くと。

(で、驚くべき事に、当時、オヤジは営業の責任者として、銀行全体の経営戦略も指揮していた。その戦略とは・・・それに気づくのは・・オヤジ亡き後の44歳の時。こんなことがあるのかと驚愕し、最高に嬉しかった。が、既にオヤジは・・)

オヤジとしては、オレが荒れようがどうなろうが、とにかく一流大学にさえ行けば、すべては丸く収まると思っただろう。オレもそう思った。友人とかスポーツとか性格とかどうでも良く、とにかく、人間の価値は学歴と偏差値で決まると。
 しかし、現実は・・・まりちゃんとアグネスが最優先。井上陽水やチューリップ、吉田拓郎にも夢中になり・・・勉強は上の空だった・・・・

父の死

そんな高校2年の秋、ある朝、学校へ行こうとすると、どうも父の様子がおかしい。布団に寝ていて、意識もあるし、目も開いてるのだが、なんか天井のアチコチを見ている。
母の「あんたはさっさと行きなさい・・」で、学校に行ったが・・・

父は脳血栓だった。倒れて入院し、1週間後に病院へ呼ばれた。父は意識はなく、延命装置のようなものを身体に繋がれ、テレビドラマなどでよく見る、強制的な呼吸装置?のマスクで息をしていた。子供心に、やばいなと思った。
 その1週間後、父は死んだ。44歳だった。

高校から普通に帰宅したある日、家では通夜の準備が進んでいた。オレの顔を見た母は、「パパが・・」と泣き崩れたが、オレは特に動じなかった。悲しくなかった。

通夜の自宅には多くの人が来て、「私は栢野さんのおかげで今があります!」と泣き叫び、その場に崩れ落ちる人もいた。オヤジはやはり、「エライ人」だったのだ。通夜で坊さんがお経を上げていたときだ。皆は神妙な顔付きで下を向いている。何割かは泣いていた。

 母の横にいた小学校5年の弟が、異常な光景に周囲の顔をキョロキョロ見たあと、急にウワッと泣き出した。パパが死んだことに気づいたのだろう。可哀想に。弟がどの程度、父のことを思っていたのか知らない。が、オレよりはるかに親想いの優しいヤツだった。

■通夜が終わり、オレは自分の部屋に一人籠もった。高校2年といえば、まだまだ子供。学校生活以外、世間のことは知らない。父親が死に、今後の生活はどうなるだろうという漠然とした不安はあった。世間的には片親というやつ。差別的な匂いもある。
 しかし・・・オレは父が死んでうれしかった。

喜ぶというカンジではないが、開放感があった。なんというか・・・ウルサイヤツがいなくなった。敵がいなくなったというのが正直な気持だ。
 が、皆の手前、笑うわけにはいかない。一応神妙な気持と顔付きをして・・・一抹の不安を吹き払うつもりで、当時、流行っていた沢田研二の「時の過ぎゆくままに」のレコードを大きな音量でかけた。
 聴きながら、なぜか涙が出てホッとした。こういうときには、やはり涙を流さなくては。「ちょっと。音が大きいわよ」と注意に来た親類に涙の顔を見られ、気恥ずかしかったが、これでオレも悲しんでいると伝わっただろう。
 しかし、泣いたのは父を想ってのことではない。通夜でブルーになっていた感性に、歌の歌詞とメロディがマッチした。タダそれだけのことだ。

父が死んだ。でも悲しくはなかった。父にはむしろ、憎しみに近い感情があった。それが何なのか。優等生ではないオレを見下していた・・・その裏に潜んでいた、自分の本当の気持ちに気づくのは、それから30年もの歳月が必要だった。

人生は学歴と職歴で決まる。

父が家にいなくなり、家はオレの天下になった。高校2年で多感な次期。些細なことで母にキレ、当たり散らした。
 ある時、キレて思わず窓ガラスを叩くと、粉々に砕け散った。母は弟を抱きしめ、「もうパパが居なくなったのよ!・・・」と泣き叫んだ。窓ガラスまで割るつもりはなかったが、バツが悪く、そのまま自室へ籠もった。まさに鬼の子。が、そこまでのことは年に1回もなく、思春期にありがちなガキだったと思う。

受験勉強は塾にも行かず、独学だった。また、当時は恋愛に夢中で、頭の中の半分はいつも彼女のことばかり考えていた。学年では350人中50番前後だったが、全国模試での偏差値は55前後。国立一期校や早慶も夢見たが、とても受かる見込みはない。
 一刻も早く家を出たかったが、東京まで出る気はなかった。父の保険金など、なんとなく家にはお金はありそうだったが、片親の子供らしく、遠くに行くのは関西まで。さらに、国立が無理な場合、私立は授業料が安い大学を選定。

 実力に見合う長崎大学、関西大学、立命館大学を受験した結果、京都の立命館にのみ合格した。立命館はその後、いわゆる偏差値が上がってブランド大学の下位に食い込むようになったが、昭和52年当時の、特にオレが受験した経営学部は偏差値も55前後。地元の福岡大学や西南大学と大差はない。が、関西私立の雄として「関関同立」と言われていたので、深い事情を知らない人には「ほー、立命館。スゴイね」と言われ、ま、オレにとってはちょうどイイ学歴となった。

家を出る

京都へ新幹線で博多駅を出る際、母が見送りに来たが、列車が発車したとき、母が目頭を押さえて泣いていた。鬼の子のような振る舞いをしてきたのに、子が離れるときは寂しいのか。しかし、オレの心は完全に京都へ飛んでいた。始めての独り暮らし。これで自由になれる。まさにルンルン気分だった。

学生時代は、まあ、普通の大学生だったと思う。意味のない大学の授業も平均以上は出て、普通にマクドナルドや家庭教師でバイトをし、合間は少林寺拳法と読書をし、毎日、日記を書いた。
 少林寺拳法は、中学時代に下級生から虐められたこと、高校時代に交際していた彼女からフラれたことがきっかけで、いつか見返してやろうと始めた。
 読書と日記は、高校まで作文が一番苦手だったことから。大学は試験が論文中心と聞き、恐ろしかった。とにかく文章を読み、書けば上達するのではないかと18歳から日記を始めた。
 高校卒業間際に彼女に振られ、結局23歳まで想いを引きずり、恋が成就することもなく、また、大学時代は恋人もできなかったが、その青春時代の悩みや想いを自由に書きまくり、この経験が20年後に活きることになる。

 少林寺拳法は当時流行ったブルースリーの影響もあったが、手足の長い私の身体能力にも合っていた。また、少林寺の試合は二人一組の演武なのだが、久保田という、無骨で努力を諦めない相棒のおかげで、2年連続関西大会で優勝という栄誉も得、学内の異種格闘技大会でも優勝した。
 学業も、自分なりには勉強した方だと思う。オヤジの書棚から持ってきた坂本コンサルタントのカッパブックス「経営学入門」や経済評論家・三鬼陽之介氏の本をわからないなりに読み漁った。
 また、のちにイトマン事件や総会屋体質で叩かれることにはなったが、雑誌「経済界」主幹・佐藤正忠氏が選挙違反で逮捕され、出てきた時に書いた「どんな人間になりたいか」には大いに感化された。
 ゼミでも、当時経営学部で一番人気の「渡辺峻ゼミ」に入り、当時流行った「日本的経営」の影響で経営書も読みまくった。卒論は渡辺先生の考えで、図書館の本を切り張りした論文ではなく、各自が興味ある業界の企業に直接訪問して取材。私は京都本社だった「餃子の王将」の経営管理を研究。 
 今考えれば、非常に拙いレベルではあったが、ゼミでは皆の論文を持ち寄って商業出版まで実現した。学問が面白くなった私はあえて留年を選択。5回生の夏にはニューヨークのコロンビア大学へ語学留学。金を出せば誰でも通える英会話コースで、そこは日本でダメな学生のたまり場でもあったが、教師の27歳アメリカ人女性・ジュディと恋に落ち、わずか3ヶ月の間ではあったが、自分の国際関係行動力に酔ってもいた。

就職活動

 そして臨んだ就職活動。私の中では、一部上場の有名会社しか頭になかった。オヤジはキライだったが、神戸大学を出て銀行取締役のエリートの姿は、子供の頃から見ても憧れたのだろう。立命館では見劣りするが、なんかとか有名大学の一角ではある。
 実際に足を運んだ第一希望候補は丸紅、兼松工商、大沢商会、NEC、松下電器貿易。しかし、各社の出身大学実績を見ると、関西では同志社、関学までが大半。その手の会社では、立命や関大は当落スレスレラインで、事実、私も落とされた。
 OA商社の内田洋行では、立命館クラスは楽勝だったので、つい、面接で「第一志望は松下です」と口を滑らせ、面接官から露骨に嫌な顔をされた。結果は案の定、不合格。
 追い込まれた私は、とりあえずの滑り止めで日興証券と山一証券を受験。今はどうだから知らないが、証券・スーパー・外食産業・車のディーラーは人使いが荒く、そこそこの大学であれば、ほぼ全員が採用になっていた。
 結果、日興と山一に合格。野村とは大差があったが、山一よりは頭一つ抜け出していた日興証券に行くことに決め、内定者研修でも勢いのいいホラ吹いたりして目立った。証券マン。果たして何をやるのか、皆目見当がつかなかったが、とりあえずは一部上場だ。

■そんな10月の半ば、下宿に山のように来る二次募集のDMの中に、「ヤマハ発動機」の名前を見つけた。当時、就職するなら東京か大阪と思い込み、地元福岡はもちろん、ローカル本社の会社は全く眼中になかった。
 が、天下のヤマハだ。オレは学生時代、バイクにもはまっていた。最初は少林寺の仲間である久保田のホンダダックス70cc後部に乗せてもらったとき、俺は一目でバイクの世界に惚れた。当たり前だが、徒歩や自転車よりはるかに行動範囲が広く、公共交通機関と違って自分の意志で自由に動ける。スグにダックスを買い、のちに中古のオフロードバイク・スズキハスラー250ccで全国を放浪した。
 しかし、趣味と仕事は違う。ましてや、天下のヤマハだ。立命館レベルでは受かるはずはないと思ったが、受けるだけ受けてみるかと、大阪の地産ホテルで二次募集試験を受け、5人くらいの集団面接では好き放題に振る舞った。メンバーの中では「勝ったな」と思ったが、超有名企業のヤマハだ。無理だろうと、入社確定を意味する11/1の日興証券・会社訪問準備に備えていた。
 ところが、ヤマハ発動機から採用通知が届いた。一瞬迷ったが、社会人になって女や皆と名刺交換するシーンを想像すると、絶対にヤマハの方がカッコイイ。日興には「すいません。大学院に行くことになりました」とウソをつき、晴れて天下の一部上場企業でCMもやっている、有名会社の社員となることになった。

 これで人生の成功はほぼ確定した。人生はまず、どれだけ有名な大学へ行くかで決まる。次に、どれだけイイ会社に行くか。それは当然、有名な一部上場会社でなければならない。
 学生時代は京大や同志社の連中には引け目を感じ、京産大以下の学歴は見下していたが、次は会社に入ってからの競争だ。ヤマハだから優秀な大学のヤツが多いだろうが、ともかく、これでヤマハ発動機「以下」のサラリーマンには勝った。
 「以下」とは、例えば同期が就職したジャスコやニチイなどのスーパーや証券会社、同業のスズキやカワサキ、その他、九州の田舎会社、東京でも中小企業など、とにかく、会社の規模や知名度で劣る会社の人間は、みんなオレよりも下層だと思った。
 福岡へ報告に行っても、銀行社宅や高校で友達だったヤツが、学歴が福岡大学や西南大学だと見下した。高卒や中卒は、俺の中では人間ではなかった。学生時代に人間を見る基準は偏差値で、社会人なら勤務先のレベル。
 オレと同等だった友人が学習院に行ったと聞いた時、一瞬、偏差値で少し負けたかもと思ったが、一浪と聞いてホッとし、お互い母親と子供の食事会だったにも関わらず、「あー、浪人でね」と吐き捨てた。小学校時代からの親友に対してだ。
 そして、就職先は天下のヤマハ発動機。偏差値で言えば、俺が属していたのは日本の同級生の中で「上の下」、または「中の上」と判断していたが、そのレベルの中では、「立命館→ヤマハ発動機」という肩書はまあまあの成功組だと確信していた。

またも「俺は勝った」

 しかし、次の問題は入社後だ。会社の中で、同期に勝たねばならない。天下のヤマハ発動機だから、優秀な大学ばかりだろう。俺の立命館では弱いかなあと一抹の不安があったが、研修で磐田本社に皆が揃ったとき、コレは勝てると内心思った。
 出身大学を聞くと、なぜか一流大学がほとんどいない。東大や京大はゼロだし、国立は佐賀大学とか東京都立大学程度。私立も、なぜか早慶は1名ずつで、いわゆる東京六大学や関西も、上智や立教や明治、同志社や関学など、優秀なレベルがほとんどいない。大半が聞いたことのないような大学で、オレの中では人間ではない。(あとで思ったが、たぶん、優秀な理系は別採用)

 これは意外だ。天下のヤマハが、なんでこんなバカ大学出身者ばかりなのだ。しかし、結果として、俺はこの内定者の中で、偏差値では上のグループだ。頑張れば出世できる。部長、取締役、いや、社長も夢ではないかもと、俄然、出世欲が出た。
 本社のある静岡県磐田市での2カ月の研修中、夜遅くまでビジネス書を人一倍読み、新人研修の発表大会では私がリーダーを務めたグループが最優秀賞を受賞。配属先も、出世するなら中央に出るのが有利だろうと東京を希望し、東京支店へ配属決定となった。
 ある有名大学のヤツが研修中にノイローゼになって退社した。また、別なヤツは工場実習で機械に挟まれて腕を落としたと聞いた。「そうか。可哀想に・・」と思う反面、これでまた一人ライバルが減ったと思った。

 レースはもう始まっていたからだ。

-ルサンチマン

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